矢口高雄の独り言 2005

「年のはじめ」  更新日時:2005/01/01
年のはじめのためしとて
終りなき世の目出たさを
松竹立てて門ごとに
祝う今日こそ楽しけれ

  

「年の始めに寄せて」  更新日時:2005/01/03
例年のことながら年末は多忙を極める。加えてこの1~2年、妻の体調が芳しくないこともあって正月は極力簡素にしようと話し合った。御節は数年前に廃止しているが、それでも暮れの28日には門松とお供えの餅だけは買い求めた。居間と書斎とアトリエにお供えを飾るのはわが家の最低限の慣習である。

そうして迎えた正月である。


ジムの帰り、近くのユニクロで購入したダウンジャケットを着ながら、酒を飲んでいる矢口。正に「雪だるま」・笑

東京には珍しく大晦(おおつごもり)が雪で覆われた。だから初詣もパスして、何ということもなく新年を迎えた。雪のおかげで穏やかに元旦を迎えた、と言えよう。

1日、2日と最寄のサウナに出かけたぐらいで、ゴロゴロしながら3日である。そうそう。昨年末「三平」のパチンコが出たことで、2日の夕刻にその初打ちと洒落てみた。1万円程打ったろうか、突然確変の大当り(13連チャン)に恵まれた。最先のいいスタートと言うべきだろうか・・・。

ところで今朝、フッと頭の隅をよぎるものがあった。
「正月」をこんなに簡素に送っていいものだろうか・・・という疑問だった。



つまり、我々は日頃「先祖たちの旧い英知や文化を尊び、それを後世の人達に
バトンタッチする責任がある」と言う事を口にする。ボクも作品のなかでそうした主旨のことを何度となくメッセージして来た。

しかし、生活様式の変化するなかで簡素化したり廃止したりすることは、
そうした先祖から受け継いだ文化のバトンタッチを途絶えさせることに
つながらないだろうか・・・・という疑問である。

そう考えると急に寂しくなって来た。

いつの世にも「文化」は流れて行くものである。言葉を換えれば、過ぎ去るものは過ぎ去ればいい・・・という突き放した考えもあるだろう。が、ボクの心のなかにはそうまで割り切れないものが少なくない。

年頭に当り、ボクの子どもの頃の我が家の年末スケジュールを列記して、このコラムの締めとしたい。

12月26日 スス掃き
年に一度の大掃除。松迎え スス掃き終了後に裏山に門松を切り出しに行く。

12月27日 納豆をねかせる 
ボクの村の正月には納豆汁が欠かせない料理だったので、自家製納豆を仕込んだ。

12月28日 豆の粉挽き
いわゆるキナコを石臼で挽いて正月の餅を食べるのに備える。。

12月29日 町立ち 
正月用の肴類を20キロも離れた町にソリを引いて買いに行く。
* 尚、この日に餅つきをしないのがボクの村の禁忌。

12月30日 餅つき 
鏡餅、まゆ玉餅、曲り餅をつくる。

12月31日 年越し 
門松を立て、お供えを飾り、正月の準備を整えた後、神棚を拝んで年越しとなる。

これが我が家の年末のスケジュールだった。

世の中が全て貧しかった時代の、雪深い山里のことである。

しかし、そうした手順を慎み深く踏みながら迎える「正月」は、まさに年が
新しく始まったという感慨が深く、子ども心に身の引き締まるひとときであった。
「杉花粉症」  更新日時:2505/03/22
今年は例年になく大量の杉花粉が飛んで、「花粉症」を患らう人達にとっては辛い春となっている。ボクが花粉症に見舞われたのは、もう10年余り前のことだ。突然目がかゆくなり、涙が流れ、クシャミを連発して鼻水が止まらなくなった。

妻がそんなボクを見て、何やらうれしそうに笑って言った。
「あなたもとうとう仲間入りネ・・・・・・」


妻・勝美を筆頭に矢口以外の家族は20年以上も鼻炎に苦しんでいる・・・

妻はそれはボクよりも更に5~6年は早かった。その頃は「花粉症」という呼び方もなく、「慢性アレルギー性鼻炎」と診断されて、ひどく苦しんでいた。
一旦発症すると、止らない鼻水に一日一箱では足りないほどのティッシュペーパーを使った。

そうそう、正月休みを利用して家族でハワイ旅行をしたのだが、ハワイの空港に到着し、歓迎のレイが首にかけられた途端にクシャミを連発し、辛い旅行となった。

ボクが初めてアレルギー反応を引き起す元凶が「花粉」だと知ったのはこの時である。・・・が、長年そうした苦しみを味わって来た妻だけに、ボクの発症は同類を得たような気分だったのだろう。いや・・・もっと言えば「私の苦しみがやっとわかったか・・・!!」という、喜びにも似た気分だったろう。

ボクが発症した頃には、既に「杉花粉」は有名になっていた。・・・だがボクはそれを信じたくなかった。だから鼻水を流しながら「オレは杉林の中で生まれ育って来たんだ。そんな人間が杉花粉症になんかなるわけがない!!」と、豪語した。

豪語の裏には、少年の日の鮮やかな記憶があった。中学時代の記憶だ。冬も終りかけようとする学校帰りに、道路の両側に林立する杉林から、黄色い縞状を為して渡る杉花粉を浴びながら家路を急いだ体験である。あんなにおびただしい花粉を浴び、鼻腔一杯に吸い込んで暮して来た人間が、今さら「杉花粉症」でもあるまい・・・・という思いがボクには頑としてあった。

しかし、現実はいかんともし難いものだった。


なんとも無様な矢口の姿・・・・意地でも薬を飲もうとしないで仕事に打ち込む姿(笑)

毎年12月頃になると、クシャミと鼻水に容赦なく襲われた。だがボクはその間一度として薬に頼ったことはない。流れ落ちる鼻水には、鼻腔にティッシュを丸めて詰込むという手段で抵抗した。カッコつけてる場合ではない。仕事場ではもちろんだが、街を歩く時も平然とティッシュを詰めて歩いた。

そんなボクが今春初めて薬を服用した。人前で話す講演があったので、とにかくその時間内だけでもとワラにもすがる思いで服用してみた。ところが、これが信じられないほど効いた。普段ほとんど薬を飲まないという体質も手伝ってか、ひどく効いた。

ところが、それから不思議な現象が起こった。たった一粒飲んだだけで、以後一週間から十日程「花粉症」が発症しなくなったのだ。一粒の薬効がボクの体の中に、アレルギー反応を起こさない記憶としてインプットされたのだろうか。

仕事帰りに立ち寄る行きつけの寿司屋さんがある。そこで時々出会う耳鼻咽喉科のお医者さんがいる。・・・で、そのお医者さんに、この不思議な現象を尋ねてみたが、答えは簡単なものだった。「あなたのは花粉症には違いないけど、極く軽いもので、しかも杉花粉症ではないようですネ」

この一言にボクは大きく胸を撫で下ろした。杉林で生れ育った野性児である・・・という自負心がムクムクと湧上って来た。



「鰯(イワシ)の頭も信心から」と言うが、医者の一言にもバツグンの薬効がある様で、大量の杉花粉が飛び交う春だが、実に快適な日々が続いている。
「脇道」  更新日時:2005/04/01
作品を描いている時、時としてドラマの本筋よりも、ちょっと脇道にそれた
場つなぎのエピソードが面白いことがある。

つまり、それがなくてもドラマを進めることは出来るのだが、このヘンでちょいと回り道してみるのも楽しいじゃないか・・・・・・と言うケースである。
現在ボクは、その脇道、回り道に猛然と突っ込んでいる最中だ。

「カムチャツカ編」でのことだ。ドラマの進行を先取りした話になるが、まあいいだろう。ドラマはこうだ。ワッカイワナを目前にした三平たち一行は、徒歩では進めないアクシデントに見舞われる。釣り場(ポイント)ワシリの滝まではわずか30㎞だが、そこは山間の渓谷だけにヘリでは行けない。・・・かと言って、道なき道を30㎞歩くには片道に丸一日は要す。とても滞在期間内では到着も帰還もおぼつかない・・・・と言う設定である。

この苦境を打開するために、ワシリじっちゃんとミーシャが出した提案は「馬で行こう」と言うもの。馬の速歩(はやあし)ならば時速14~15㎞だから可能だ・・・・と言うのだ

アイデアはそれで良い。ワイルドなカムチャツカの原野を馬で行くというアイデアは、我ながらワクワクする。ちょいとした西部劇的な効果も期待出来るというものだ。

    

そんなアイデアに従って三平たち一行はすんなり馬で目的地に到着する、と言う描き方が出来よう。だが、ここで飛び出したのが脇道のアイデアだ。もし、三平くんがこれまでに一度も馬に乗った経験がないとしたなら、果してどういうことが考えられるだろう。

馬って、素人がいきなり挑戦して簡単に乗りこなすことが出来るだろうか。

ボクの脳裡にフッと思い浮かんだ顔があった。もう40年近くも前の銀行マン時代に机を並べて仕事をしたY嬢の顔だった。当然今日ではY嬢と呼ぶ年令ではないわけだが、とにかくそのY嬢はかつて馬術で国体に出場する程だったという事を思い出して、早速デンワをしてみた。

久し振りの会話でたちまち打ち解け合い、ただちに乗馬の話へと移ったのだが、「素人がいきなり乗るなんてとても無理よ。私なんか最初はとても苦労したわよ。とにかく馬ってヤツは用心深くて、よく人を見るのよ。特に乗り手がオドオドした初心者だったりするとたちまち見下して、まるっきり言うことを聞いてくれない。何度振り落とされたか知れないわ。地面に叩きつけられて、見上げた時の馬のツラったら、さも勝ち誇ったような眼で見下して、あの長~いウマズラが二倍も三倍にも長~く見えるのよ、ホホホ・・・」



さらにY嬢以外の2人にも聞いてみた。1人は私の娘だが、過年アメリカ旅行をした際野外乗馬にチャレンジしたと言う。「もう二度と乗るまいと思ったわよ。ハナッから私をバカにして、3歩進んだらペタッと座り込んでしまうのよ。もう、3時間ぐらいでやめてしまったけど、下りた後あちこちが筋肉痛で、気がついたら尾てい骨あたりの皮が赤ムケになってたわ・・・・・!!」

もう1人は、ボクの腰の具合を調節してくれている療法師のセンセイ。この方もまるで相手にされず、頭に来て30分で下馬した、と言う。

この3人の体験談がボクを大きく脇道に誘うことになった。つまり、脇道ではあるが、三平くんの乗馬シーンを描きたくなったのだ。

直ちにインターネットで「初歩的乗馬レッスン」という本を本を二冊買い込み、猛勉強を開始した。そして出た結論は「これはただ事ではないゾ・・・・!!」となった。

教本ではわからないところがゾクゾク出て来た。で、やはり実体験に勝る勉強はない!と考えた。ボクの近くには馬事公苑があり、そこでは乗馬クラブもあると言う。つまり、そこで一度だけでもいいからホンモノの馬に乗せてもらおう・・・と計画した。

その計画を療法師のセンセイに相談したところ、明解に否決された。「そばで見るのは結構だけど、乗るのだけはやめて下さい。例え30分でもあなたの腰は保障しませんヨ」でした。とにかく、そんなわけでこの脇道には四苦八苦しながら、楽しんでいます。ハハハハ・・・
「Fさんの想い出」  更新日時:2005/04/15
何の目的があってこんな一文を書こうとしたのか、今は思い出せない。

その時の自分の気持ちを記憶にとどめようとしたのだろうか。あるいは、いつの日か備えた備忘録の積りだったろうか。使い捨ての原稿用紙の束の中から、九年前に書いたと思われる一文が見つかった。

つれづれなるままに読んでみたが、なかなかいい。思わずしんみりしてしまった。このままクズ籠に捨てるには忍びない気持ちになった。

そこで、この一文に光を当てるためにも、このページで発表しようと思う立った。古く黄ばんだ鉛筆書きの原稿だが、どうぞ御覧あれ・・・・・・!!

平成八年二月十七日

この朝ボクは二階の書斎で、連載中の作品のネーム(下描き)に取りかかっていた。
朝とは言っても午前十時を過ぎた頃のことである。・・・と、突如階下の妻からけたたましい声がかかった。がさつな性格の妻なので、やれ食事が出来ただの、やれお茶が入っただのと、階下から大声で叫びかけてくるのがわが妻の常なのだが、この日のトーンはいつものそれと違って危急を告げる響きが込められていた。

妻は無類のヘビ嫌いである。山野にうごめく実物はもちろんだが、テレビの画面に現われただけでもそれはもう絹を裂くどころではない悲鳴を発する。この朝の悲鳴はそれに勝るとも劣らない響きだったので、ボクの咄嗟の判断は

- 庭の植え込みあたりに本物のヘビが出現したのか・・・・・!? -

と、ばかりに、半ば苦笑しながらゆっくりと階段を下りて行った。しかし、ヘビではなかった。掃除も洗濯も終えた妻は、ホッとくつろごうとテレビをつけたという。そのテレビを指して妻は絶叫していた。

「Fさんが死んだ————-っ!!!!」
「エフ・・・・・・・?」
「藤子Fさんよ。今テロップで流れた!!!」

とたんにボクの身体は脱力した。まるで腰が抜けたように身体がだらしなく緩み、そのままペタリと座り込んでしまった。

藤子Fさんとは、言うまでもなく「ドラえもん」の作者として有名なマンガ家・藤子F不二雄こと藤本弘氏である。腰が抜けたように座り込んでしまったボクだったが、その心中には「やっぱり・・・」であり、正直なところ故・手塚治虫先生のときの様なショックはなかった。言い換えれば、ある程度の覚悟はしてきた事である。

つまり、藤本氏の体調が思わしくないことは数年前から衆知のことだった。肝臓が良くないらしく、パーティなどで同席してもその顔色は極めて悪く、失礼を省みずに言えば生気を失っていた。六十を越したとは言え、昨今ではまだまだ若々しい、張りのある肌艶の同輩が多くいるなかで、痩せしぼんだ体型と共に、艶のない額やこめかみのあたりには、シミがめっきり増えて見えた。

「どうですか、近頃の体調は・・・・・・」

パーティ等の席でこんなご機嫌を伺う会話がどれほど浴びせられたことだろう。かく言うボクも、お会いする度のご挨拶の一言目はそれだった。

それにしてもF(藤本弘)さんは、なんと誠実な御仁だったろう。幾度となくあきあきする程に浴びせられる決まり文句のような挨拶にも、ぞんざいな応答は一切なかった。

「まあまあです。昔のように無理は出来ませんが、マイペースで少しづつ描いています」

そんな立ち話を交わすFさんとボクの傍らにボクの娘がいた。娘は何人かのマンガ家に会いたいとせがんで、金魚の糞のようにボクにくっついてパーティ会場にもぐり込んでいたのだ。・・・・が、目前にあこがれの藤子F不二雄先生を発見したわけだから、色めき立つのも無理はない。すかさずサイン帳を出してサインをねだった。

こんな場合マンガ家は、大抵気軽に応じてくれる。サラサラと自分のキャラクターを描き筆名を入れる。もちろんボクも余程のことがない限りそうしている。だが、Fさんは違っていた。

「ボクは、こういう場で立って描くのがとても苦手なんです。申し訳ないけど、家に帰って描いて送りますから、住所と名前を教えて下さい」

傍らにいたボクは冷汗三斗の思いだった。そんなことまでしてサインをねだる娘の失礼を盛んに詫たのだが、後日驚いた。なんと、娘宛にサイン色紙が郵送されて来たのだ。しかもバッチリと彩色された「ドラえもん」の色紙だった。

Fさんは昭和八年の生まれというから、ボクより六歳年上である。手元の資料によれば、1951年(昭和二十四年)に「天使の玉ちゃん」(毎日小学生新聞)でデビューしたとある。昭和二十四年といえばボクは小学校四年生で、手塚治虫の「流線型事件」という赤本を入手し、手塚治虫なくしては夜も日も明けないマンガ少年の仲間入りをした年である。

同時に手塚中毒が講じて、将来の夢は「マンガ家」と意識した年でもあるが、奇しくもFさんはその年にデビューを飾っていたことになる。

その頃の日本は・・・・・・・・

一文はココまで記されて終っている。





- 上のドラえもんのサインは1980年に頂いたものです。 -
「小心者」  更新日時:2005/04/28




二十数年前外国旅行をした折のことだ。外国名は、何かの支障もあろうかと敢えて記さないことにしよう。

総勢二十名ほどのツアー旅行だった。ホテルに着き、夜となって、打ち解け合ったツアーのメンバーが数人部屋に集って、ちょっとした酒宴となった。ボクもその宴に御呼ばれの身となって伺ったのだが、そこで勧められたのが「大麻タバコ」だった。

「旅の恥は掻き捨て」とでも言うべき、密やかな誘惑であった。

だが、ボクはやんわりと、しかし心ではきっぱりとお断わりした。誰も見ていないからと言って法を犯す。そういうことが大嫌いだったからである。

逆に言えば、そうした後ろめたい意識を心に抱えながら生きて行けるほどの図太い神経を持ち合わせていない、と言った方が適切かも知れない。

いわゆる「小心者」ということだろう。
「咄嗟の閃き」  更新日時:2005/05/09
自動車の運転免許を取得して今年で二十五年になるが、一度だけ駐車違反で捕まったことがある。

用を済ませて車に戻ってみると、ミニパトのお姉ちゃんとレッカー車がいて、レッカー寸前だった。サイドブレーキを掛けたボクの車の後輪にはジャッキで持ち上げられ、その下に牽引装置が差し込まれているではないか・・・!!

驚いたボクは、あわてて免許書を提示しながら、必死に弁解した。

「ここが駐車禁止区域であることは重々承知していました。でも、明け方急にギックリ腰に見舞われ、あまりの痛さに駐車場を探す気力もなくし、すぐそこの治療院で治療してもらって来たところです」

この弁解は急に思いついたものではなく、ホントのことだった。

指さす先には治療院の看板も見えていたし、腰の苦しい様は決して演技ではなかった。だからミニパトのお姉ちゃんも気の毒そうな顔で、免許書の写真とボクの顔を交互に見ていた。



この時ボクは免許を取得して二年目ぐらいだったと記憶する。

咄嗟にいいアイデアが閃めいた。躊躇している場合ではない。イチかバチかで当って砕けろ、とばかりにミニパトのお姉ちゃんに言った。

「ボクは、免許を取得したとき、強く心に誓ったことがあります。
それは “取り敢ずむこう十年間は無事故無違反を貫くこと “でした。
腰が苦しかったとは言え、違反してしまったことは認めますし、深く反省もしています。ですが、ボクのこの誓いを達成させて下さい。お願いします・・・!!」

と、言い終わるや否やミニパトのお姉ちゃんの顔がニッコリと崩れた。

「わかりました。十年とは言わず、二十年でも三十年でも続けて下さい」

かくて免許書はそのまま返され、ボクは無罪放免となったのだった。無事故無違反の誓いは咄嗟に閃めいたアイデアだったが、以降今日に至るまでその記録は続いている。

正直の頭に神宿るとは、このことだろうか・・・・・・。
「竹の秋」  更新日時:2005/05/18
” 漢(おとこ)どち 華甲(かこう)の宴 竹の春 “

この一句は、俳人丸岡忍さんがボクの還暦を祝して読んでくれた一句である。

還暦を迎えたのは1999年10月28日で、当然のことながらその日はボクの六十回目の誕生日だった。そして祝宴は友人達の肝煎で、向島の料亭「桜茶屋」で行われた。一生に一度しかない人生のひとときだから、思いっ切り非日常を楽しもうというのが肝煎りたちのコンセプトで、超一流の綺麗どころを侍らせた賑々しい一夜となった。一句はその席上で丸岡さんより披露され、色紙にしたためられてボクに贈られたものだった。

翌朝酔いからさめたボクは、その色紙を矯めつ眇めつながめた。
「 漢(おとこ)どち」は男たちだろうが、「華甲(かこう)」とは何だろう・・・・・

こんなとき、何はともあれ取り出すのが、ボクの座右の書とも言うべき広辞苑である。あった。「華甲(かこう)」=華の字を分解すれば六つと十と一となる。甲は甲子(きのえね)の意、数え年の六十一歳の称。還暦。つまり、ここまでは = 男たちが集って還暦を祝う宴をやっているよ = となるだろう。・・・が、下の句の「竹の春」には首をひねらざるを得なかった。宴はボクの誕生日の10月28日だから秋真っ只中のはずである。なのに春とはどういうことだろう。

再び広辞苑にすがった。・・・あった。

「竹の春」=竹の新緑の盛りである陰暦八月の称。竹春(ちくしゅん)は俳句の秋の季語。春があるのなら秋もあるのに違いない、と考えたボクは三度広辞苑をめくってみると、あるではないか。

「竹の秋」=竹の落葉期である陰暦三月の称。つまり竹秋(ちくしゅう)は春の季語。

まいった。知らないとは恐ろしいことだ。さすが俳人の句と、しきりに感心するばかりだった。

しかし、それにしても秋の句に「春」、春の句に「秋」を用いるとは何とへそ曲がりなことだろう。きっといにしえの俳人たちのへそ曲がりな遊び心から出た季語ではなかっただろうか。



話題は飛ぶが、今年のゴールデンウィークを中心とする4月29日~5月8日にかけて郷里秋田のまんが美術館で「釣りキチ三平CLASSIC展」が行われた。・・・で、5月3日~5日の日程でサイン会を行って来た。「CLASSIC展」は、CLASSICの表紙用に描いた四十数点の原画と、それを拡大したパネルを展示したが、なかなか見応えがあり、連日盛況だった。

みちのく秋田は、温暖化が顕著な近年は桜の開花も早まり、4月25日頃には葉桜になってしまう。ところが今年は例年にない豪雪に見舞われたこともあって春が遅く、およそ一週間遅れの5月3日、4日が満開だった。つまりボクは、その満開時の帰省となったわけだが、少年の日がよみがえったように、どこを見渡しても桜、桜、桜だった。だが、4日の昼頃から天気は五月晴れだったが、思わぬ強風に見舞われ、帰京する5日にはあわれな葉桜を横目にふるさとを後にすることになった。

そんな帰途のすがら、5月の風にサラサラと音を立てて葉の舞い散る光量を見た。民家の一隅に林立する竹林だった。正に「竹の秋」だった。

” 花も舞い 葉も舞い散るや 竹の秋 “
「CLASSIC完結を迎えて」・・・その1  更新日時:2005/08/30
2003年6月5日号をNO.1として創刊された「釣りキチ三平/CLASSIC」も、2年4ヶ月という歳月を積み重ね、いよいよ本NO.57号をもって無事完結となりました。

一重にご愛読下さいました皆々様の、熱烈なご支援の賜と深く感謝申し上げます。

出版の裏事情を明かす様で恐縮ですが、この「CLASSIC」の頭初の発刊計画は、6ヶ月を一区切りとして、その売れ行き状態を見ながら、好調であれば更に6ヶ月延長する・・・というスタイルの企画でした。つまり、売れ行きが悪ければ、途中での休廃刊も十分考えられたわけです。

しかし、その6ヶ月の壁をことごとくクリアし、こうして最終刊に漕ぎつけることが出来たのは、やはりご愛読下さいました皆様の熱いご支援があったからこそ達成し得た結果であることは、言うまでもありません。もう、「昭和の三平」は一編も余すことなく、全てを収録し終えました。

改めて、深く感謝申し上げます。



それにしても、発刊中の2年4ヶ月は、省てあれよあれよという間に過ぎ去った気分です。・・・が、程良い緊張感につつまれて、充実した歳月でもありました。

なかでも、全て新作で描き下ろした毎号毎号の表紙絵は、そのデザインを考えるだけで心躍る楽しい作業でした。しかし、連載時に込めたパワーや情感が、今日のボクの絵では再現不可能なケースも少なくありませんでした。マンガは、やはり生き物です。

その時代の絵はその時代にしか描けないものだということを痛感しました。歳月を重ねるなかで、様々な必要に迫られて、ボク自身が大きく成長していたということにもなるでしょう。

一方、表紙絵は一冊の本になれば、タイトルやキャッチコピー等に埋め尽くされて、大半が消されてしまいます。それを残念に思った編集部が実に大胆なアイディアを出してくれました。表紙をめくったすぐ次に「三平カバーイラストコレクション」なるページを作ってくれたことです。



作者としてはあまりのうれしさに「ナイス企画!!」と、大拍手を送ったものでした。現にファイルするファンも多く、それを携えてサインをもらいに来た方が何人もいました。また、カバーイラストの裏の筆書きのメッセージも、思えば意義深い企画でした。

ただ、時折り人生訓めいたメッセージになった時には、書いたボクの背後にいるもう一人もボクが、「オメエ、そんな偉そうなことを言っていいのか・・
・・?」と言ってひやかすのです。その度に、面映ゆい思いで苦笑するしかありませんでした。

しかし、このメッセージで「心を新たに、生きる勇気がわいて来ました。ありがとう・・・」というファンレターをかなり頂いたことを報告しておきましょう。
「CLASSIC完結を迎えて」・・・その2  更新日時:2005/09/07
「元気の出る対談」も、何と多くの素適なゲスト達とお会いしたことだろうと・・・省みて感激しています。

パリ~ダカール・ラリー優勝のドライバー増岡浩さんを第一回目のゲストに、最終回の「アンパンマン」のやなせたかしさんに至るまで、28名を数えました。

  

月に一回一人のゲストをお迎えしての対談でしたが、初め頃は対談慣れしてなくて、正直申し上げて緊張の連続でした。いましがた終わったばかりなのに、どんな話をしたのか思い出せないほどの回もありました。

そんなボクの体たらくをいつも救ってくれたのが構成担当の正岡さんです。
正岡さんの手にかかると、支離滅烈だった対談が、見事な対談になっているから不思議でなりませんでした。



正岡さん、長い間本当にありがとうございました。

スポーツや芸能界、そしてマンガ界等々から素適なゲストをお招きしましたが、多くは編集部の交渉でその人選が決まりました。・・・が、ボクもかなり積極的に相手探しに奔走しました。

例えばお笑いタレントの石塚英彦さんとテレビ朝日の「ワイドスクランブル」の司会者・大和田獏さんは、ボクと同じスポーツジムに通う仲であり、裸で付き合うサウナ仲間でした。

  

つまり、このお二人に対する出演交渉は汗だくのサウナの中でした。石塚英彦さんの、あの広い背中を滝のように流れる汗が、今でも懐かしい思い出です。

対談も中盤を過ぎた頃からは、ボクもそれなりに慣れて来たらしく、話が咬み合うようになったと思います。なかでも、若大将の加山雄三さんやコメディアンの萩本欽一さん、マンガ原作者の小池一夫さんは、ボクとはほとんど同じ世代だけに話が弾んで、印象深い対談になったように思います。

ただ一つ残念だったのは、美人艶歌歌手の藤あや子さん以外には、女性のゲストに恵まれなかったことです。・・・と書いて、もう一人マンガ家の里中満智子さんを思い出しました。大変失礼致しました。



しかし、もしかしたらボクのなかでは里中さんを女性だと認識していないのかも知れません。なにしろ里中さんとはもう三十年来の同志であり、マンガの将来に向かって闘って来た仲間というイメージが強いのです。言葉を換えれば「男もかなわない才媛」なのです。

オ、オット~・・・・・これ以上言ったらセクハラの抗議を受けそうです。

里中さん、すみませんでした・・・・・・
「CLASSIC完結を迎えて」・・・その3  更新日時:2005/09/18
さて、「CLASSIC」と言えばどうしても特筆しなければならなことがあります。

それは、創刊記念として「カムチャツカ・フィッシング・ツアー」なる一大イベントを企画したことです。釧路→ペトロパブロスク・カムチャツキー間に特別チャーター便を仕立て、読者に参加を呼びかけ、そのなかの十名を招待するという太っ腹な企画でした。・・・が、その夢のツアーがこの年(2003年)8月に実現しました。

もちろんボクも参加しました。鮮烈な驚きの旅でした。あるがままの自然とはどういうものかを教えられた旅でした。そして、そのツアー体験の成果として、NO,15号より「三平 in カムチャツカ」編の描き下ろし連載を開始しました。

もともと、この「カムチャツカ編」は、平成版「釣りキチ三平」として、パーソナルマガジン・スタイルで発表しようと執筆を開始したものでした。・・・が、それが急きょ「CLASSIC」への連載となったことは「CLASSIC」の更なるパワーアップにつながったことでしょう。

  

まあ、そんな裏の事情はさて置くとしても、連載というスタイルで発表された以上、この「カムチャツカ編」は「CLASSIC」の完結となる本号を以って完結となれば、よりベターだったはずです。もちろんボクもそうした目算を立てて執筆しましたが、描けども描けども終わりが見えて来ないと言うのが実情でした。

つまり、本号をご覧の通り「カムチャツカ編」は、なんともみじめな尻切れトンボ状態の最終ページとなってしまいました。プロとして恥ずかしい次第です。しかし、現在のボクはすっかり居直っています。

長編作品は、結論を急がず、ジックリ描き進めることが最大のコツだからです。結論を急ぐ余り、飛ばしたり省略してしまっては、それこそ尻切れトンボのような情感も、余韻もない作品になってしまいます。

  

そう考えて、この続きはジックリ描こうと決めました。あせらず、トコトン粘って、思いのたけを描こうと決めました。ご愛読いただきました皆々様には、是非そのことをご理解下さい。



つまり「カムチャツカ編」のこの後の展開はパーソナルマガジン/平成版「釣りキチ三平」へと描き継ぎしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
「韓国のマンガ事情にについて」・・・その1  更新日時:2005/11/17
「矢口高雄オリジナルカレンダー2006年版」を、ボクのマンガ家生活35周年にちなんで35部プレゼント企画をしたところ、たくさんのご応募をいただきました。

その応募ハガキの四項目に – ボクに対するメッセージ(4、矢口高雄にメッセージ) – ・・・としたところ、圧倒的に多かったのが「矢口高雄の独り言」のコラムをもっとたくさん読みたい・・・だった。

正直言って驚いた。インターネットだとかホームページなどという事にはまったくうとく、無頓着なボクである。ホームページを創っている娘には、毎夜のごとく「コラム!コラム!!」と催促されてはいるのだが、いつも仕事にかまけて聞き流して来た。

しかし、ページをのぞく皆様の要望が、こんなにも多いことをガツンと知らされたわけで、これからは真摯な気持ちで取り組みたいと思う。



それではまず手始めに、お隣の韓国のマンガ事情について少し触れてみよう。

韓国には、もちろんかつては国情に応じて発展して来た独自のスタイルのマンガがあった。が、今日では99パーセントと言っていい程、いわゆる日本式ストーリーマンガ全盛である。いや、日本式ストーリーマンガと言うよりも、青少年漫画市場の80パーセント以上が日本マンガの翻訳版そのもので、残りの20パーセントが自国のマンガ家たちの作品なのである。

映画やテレビドラマ等では今日の日本は一大韓流ブームである。だが、マンガの世界では、韓国はおよそ30数年前より一大日本ブームを続けて来た。

その発端は海賊版だった。版権も著作権の承諾もないまま、勝手に自国語に翻訳し、粗悪な紙に印刷した廉価本である。例えば「あしたのジョー」は「ハリケーン・ジョー」を改題されて大人気を博したし、「キャンディ・キャンディ」は少女たちをとりこにした。

しかし、その頃それらの海賊版をむさぼり読んだ読者に聞いてみたところ、
「ちばてつや」や「いがらしゆみこ」の作者名を知る者は一人としていなかった。海賊版だから日本の作者名など必要としなかったわけだろうが、韓国の読者はそれを自国のマンガ家が描いたものだと信じ、夢中で読みあさったというのである。
「韓国のマンガ事情にについて」・・・その2  更新日時:2005/11/25


海賊場は韓国ばかりでなく、台湾にも香港にも横行していたし、今日では中国本土もかなりの状況である。

その頃日本のマンガ家たちや出版社は、もちろんそれは違法なものだと思ってはいたが、版権や著作権が今日ほど厳しく問われなかった時代だったので割と鷹揚だった。

すべての芸術は模放から始まる。

例え海賊版ではあっても、その面白さや作法を学んで、そこからその国の若いマンガ家が育って来ることはいいことだ。
それがマンガ界全体の発展につながるんだ。・・・・と考えていた。

しかし、今日ではかなり度が過ぎている。
たしかに海賊版を手にして学んだそれぞれの国の若いマンガ家が育って来たことは事実である。
その点で行けば、日本に次いでプロマンガ家の多い国は韓国、そして台湾、香港だが、描く作品スタイルはほとんどが日本式ストーリーマンガと言っても過言ではない。



だが今日、韓国の青少年漫画市場における日本マンガのシェアが80パーセントとは、あまりにひどい。
日本マンガに比べて韓国のマンガ家の作品は面白くない・・・と言ってしまえばそれまでだが、これでは韓国のマンガ家たちにとっては死活問題である。

そこで最新の情報だが、韓国漫画家協会では、
- 韓国の出版及び印刷振興法なるものを改正し、海外漫画クォーター制(Quota)を導入しよう -
という気運が盛り上がっているという。

クォーター制とは、出版社の海外漫画(特に日本)の出版を、全体の30~50パーセントに押えようという法律だという。
このことに対しては、事態の推移をもう少し見極めないことには、コメントのしようもない。

しかし、現在の韓国マンガ界は、かつて良き手本として学んだはずの日本マンガによって、死活問題にさらされているのが現状のようだ。

・・・とは言え、韓国のマンガ界を苦境にさらしている元凶は日本マンガとばかりは言えない。
その原因は、韓国のマンガを愛読する多くの読者にもあるのではないだろうか。
韓国の読者の多くは貸本店(マンガカフェ等)で借りて読むのがほとんどだという。

一冊の本を10人で読んだとしたら、発行部数は十分の一である。
つまり、マンガ家側に入る印税はその分少なくなる。

マンガ家の収入は、次なる作品を生み出すための原動力である。その原動力が失われては面白くていい作品など描けるわけがない。
つまり、韓国の貸本というシステムは、リサイクルという一面もあろうが、
自国のマンガの衰退と表裏一体をなしているように思えてならない。

マンガは借りて読むものではない。
買って読んでこそマンガ家を育て、マンガ文化を発展させるものである。

「9で割れ!!」の完結編によせて・・・  更新日時:2005/12/20
現在ボクは「9で割れ!!」の最終話(FILE 26)を大車輪で執筆中である。

この作品は、ボクの作品の中では最も異色な作品と言えるだろう。

昭和33~45年までの12年間にわたる銀行員体験をベースにした作品だから、ボクには珍しい「サラリーマン物語」とも言えるだろうし、銀行勤めをしながら少年の日の夢だったマンガ家にあこがれ、悩み、翻弄される若き日々を綴ったドラマだから「昭和の青春記」でもある。

それだけにボクはこの作品に大きな力を注いで来た。

「9で割れ!!」は「小説中公」(中央公論社)に連載したもので、
1993年6月号~1995年12月号までの二年半にわたって描き継いだ作品である。しかし、FILE 20まで描き継いだところで発表誌が休刊となり、作品は未完のままとなっていた。でも、ボクにはどうしても描き遺して置きたい作品だったので、発表誌を失ってからも暇をみつけてはコツコツと描き溜めていた。



それが、図らずもパーソナルマガジン「釣りキチ三平」の発刊にともない、再び連載の場を得てFILE 25「青春のシッポ」まで発表出来ることとなった。思えば強運な作品と言えるだろう。強運は更に続くことになる。FILE 1~FILE 21までの21話が「講談社漫画文庫」として復活し、現在三巻が発表中である。つまり、現在執筆中のFILE 26「バリバリ氏のトゲ」が第四巻完結編の最終ドラマなのである。

しかし、なにしろFILE 25を描き終えたのがほぼ十年も前のことであり、その十年間のブランクを乗り越えて最終FILE 26を執筆することとなったわけで、調子を取り戻すのに一苦労だった。が、とにかくそれも八割方完成しているので、来年早々には発刊出来る予定である。しかも第四巻完結編の巻末には特別読み切りとして「銀行マンの夢」(54頁)が掲載されることになっている。

この作品はプロマンガ家の同人誌「まんじゃぱ」VOL.2用に特別に描き下ろし作品だから、一般の読者の目にはほとんど触れていないだろう。合せてご期待、願いたい。