矢口高雄の独り言 2004

明けましておめでとうございます。更新日時:2004/01/01
ホームページにアクセス下さった皆さん、

「明けましておめでとうございます・・・・・!!」

昨年は、平成版「赤沢堤の主」一本しか発表出来ず申し訳けございませんでした。しかし、三平生誕30年という区切りのよい年に当たり、昭和版とも言うべき「釣りキチ三平/CLASSIC」創刊という事に発展し、新作を描く時間もないほどのあわただしい日々を過ごすことになりました。

そんななかで、最も思い出深かった出来事は、カムチャツカへの釣りの旅(3泊5日)でした。北の涯での鮮烈な体験であり、カルチャーショック連続の旅でした。

その成果をベースに、現在平成版Vol.5として「三平 in カムチャツカ 2004」を執筆中です。新しい舞台の新しいドラマですので、描いてるボク自身もワクワクの連続です。ところが、こうして描き始めた新作を「CLASSIC」に描き下ろし連載をしようという企画が急きょ持ち上がり、読者諸兄の手元には昨年末までに2回分お届けする結果となりました。ひとえに皆々様のご支援の賜と深く感謝申し上げます。

本年はとにかく、「三平 in カムチャツカ」編を鋭意執筆することになるわけですが、桜の花の咲く頃には素敵な企画を準備していますのでご期待ください。

本年もよろしくお願い申し上げます。

矢口高雄
「私詞」        更新日時:2004/01/18

貧しさは勤勉な豊かさを産み出す。

豊かさは怠情な貧しさを産み出す。

つい先日テレビのトーク番組に一人の青年が出演していた。青年は一台のオートバイにまたがり、アフリカ大陸縦断、ロシア大陸横断の旅をしたという。アフリカではバケツ一杯の水が貴重だったこと、ロシアではデコボコの悪路に悩まされたこと等々を実にユーモアたっぷりに語っていた。そんな旅を終えた青年が日本に帰国して実感したのは、集約すれば「日本ってなんと豊かな国だろう・・・・・!!」ということだった。が、青年はその豊かさを二つの言葉で表現していたのが実に印象深かった。

一つ目は「蛇口をひねれば水が出る」

二つ目は「道が真っ平らなこと」

私達日本人、とりわけ昨今の日本の若者達にとってこの二つは、日常的に当り前のことであり、取り立てて有り難いこととは思っていないだろう。しかし、そんな国は世界中でほんのひと握りしかなく、大半はひどい貧しさと不自由さにあえいでいる、と青年は自戒を込めて語っていた。ボクの私詞は、そんな青年の言葉から思いついたものだ。

今年もそうだったが、昨今の「成人式」での一部の若者達の体たらく振りはなんだ。まさにボクの私詞そのものではないか。
耐え忍ぶ方法   更新日時:2004/02/04

ジムの休館日と、所用(例えば地方での講演やサイン会)で不在の日以外は、
ほとんど毎日プールに通って、せっせと水中ウォークに勤しむ昨今である。

とりあえず五百メートル歩くことを日課としている。・・・が、黙々と歩くだけだからさしたる楽しみはない。極くまれに容姿のいいご婦人が泳いでることもあるが、ほとんどがウエストがどこにあるのか赤マジックで線でも引いてくれないとわからない様なご婦人達なので、ただ真っ正面を見据えて歩く。歩きながらストーリーでも考えれば良さそうに思うだろうが、これがそうはいかない。プールを何往復したかわからなくなるからだ。

ジムでの唯一の楽しみは、サウナだ。汗をビッショリかいて、体重計に乗る。
五百グラムでも減っていようものなら、うれしさが心の底から込み上げて来る。ところがこのサウナ、息苦しくて耐えるのが大変だ。とてもストーリーなんて考えられない。

時計を見ながら必死に耐え続ける。何故こうまでして耐えなければならないだろうかと思うこともなくはないが、全てがその後の爽快感にある。水風呂だ。
耐えに耐えて、汗を絞って飛び込む水風呂の爽快感は、何とも例えようがない。そして、一気に飲み下すミネラルウォーターのおいしいことよ。

ところでこのサウナの中で耐え忍ぶ方法はないものかと、あれこれ試みたことがある。古い歌だが「戦友」という軍歌がある。この歌には歌詞が二十番ぐらいあるので、それを心の中で歌ってみたら、時のたつのも忘れていた。これはいい事を思いついたと、二、三日繰り返したら、飽きてしまった。で、最近新しい方法を発見した。それは、パッと顔が浮かんだ人宛てに「手紙」を書くことである。相手はもう誰でもかまわない。親でもいいし兄弟でもいい。同級生でもいいし、むかし別れた女性でもいい。相手に詰ったら秋篠宮殿下でも、松嶋菜々子でもいい。

と、まあ・・・・・そうやって心の中で「手紙」を綴り汗の時間を耐え忍んでるってわけサ・・・・・・・。
日本の美術教育に思う   更新日時:2004/02/28

ボクはこの数年縁があって、福岡県の矢部村という小さな山村の教育委員会が主催する小・中学生を対象とした「絵画コンクール」の審査員に任命され、審査に当って来た。

矢部村は、村の大半が山林という地形で、その昔より優れた木材(杉)を産出する林業で成り立って来た。コンクールもその土地柄にちなんで「世界子ども愛樹祭コンクール」と銘打って今年で13回を数える。つまり応募者はもちろん近隣の小・中学生が多いのだが、「世界」と銘打っただけに近年は外国からの応募も増えて、応募総数は毎年三千点を超える盛況振りである。

なかでも目を引くのはラオスとスリランカからの応募作品で、この両国の作品がついに昨年(12回)に引き続いて2年連続上位の賞を独占してしまった。とにかく、この2国の作品レベルの高さは驚くばかりである。画材はお世辞にも良くはない。が、絵に向う子ども達の姿勢が実に真面目で、ていねいで、それでいてダイナミックで、しかも優れた色彩感覚が日本の子ども達のそれを圧倒して輝いていた。

もちろんそこには、それぞれの国の子ども達を育む風土や、民族の伝統的な感性という点も色濃く感じられたわけだが、それ以上に今日の日本の美術教育とは違る「何か」を感じざるを得なかった。有り体に言えば、日本の子ども達の作品がかなりひいき目で見たとしても見劣りがしたのだ。

ボクは、今日の日本の学校がどんな美術教育を行っているのか、その実態はほとんど知らない。しかし、作品を見れば概ね想像がつく。基本を教えていない。という点である。絵画の基本はまず「見たまんま」を正確に描くことにある。それが出来てこそ、次の段階として「感じたこと」が表現出来るのだ。

日本の美術教育は、その順序が間違っているように思えてならない。間違った原因は「個性の尊重」という耳ざわりのいいフレーズだろう。

「個性の尊重」は確かに大切である。だが、しっかりした「基本」がなければ
「個性」など発揮出来るわけがないだろう。

発展途上のラオスやスリランカの子ども達の絵が、多くの審査員の心を撃ち、
上位を独占したという結果は、それを示唆しているように思えてならなかった
「極限の刑」   更新日時:2004/02/28

オウム真理教の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)に「死刑」の判決が下った。

いわうるオウム事件と言われる13事件のすべてを指示したと認定され、「不特定多数への無差別テロにまで及んだ犯罪は、救済の名の下に日本国を支配しようと考えたもので、極限とも言うべき非難に値する」が判決の理由だった。

つまり、この場合の「死刑」は、刑のなかでも最も重い「極限の刑」と言うことが出来るだろう。しかし、いかなる「極限の刑」が下されたとしても、被害者や、遺族の心は決して晴れることはないだろう。

被害者や遺族の無念を晴らす道はただ一つ「私の教義はあまりにもあさましく愚かしい限りの誤りだった。これにより多くの方々に与えた苦痛に対し心よりお詫びする。と同時に、本日をもって教団を解散する」と宣言し、潔く刑に服することだ。

でも、ムリだろうナ・・・・・・・
1グロスのGペン   更新日時:2004/03/05

ボクは日頃Gペンを愛用している。まだ銀行マンをしていたアマチュア時代に使い始めたのだが、様々のメーカーのそれを使用しているうちに、ボクのタッチにしっくり来るものが見つかった。タチカワペンの「No.3 硬質クローム」というGペンだった。

プロになって何年かした頃、それまでは細切れに買っていたのだが、同じメーカーのものでもその年の原材料や製造過程に原因があるのか、描き心地に微妙な差違のあることを発見した。これでは画質を一定に保つことが出来ない。そう考えたボクは直接タチカワの本社にデンワをし思い切って大量100グロス(1グロス=144本)を購入した。これだけにストックして置けば、アシスタントの使用分を考慮しても、おそらく一生品切れにならないだろう、とほくそえんだものだった。

そんなボクが今日(3/4日)何箱目かを使い切り、新しい1グロスの封を切った。

ところでマンガ家はペン先を一年間に何本使用するかという疑問がわいて来るだろう。もちろんそれは生産する原稿枚数に比例するだろうし、言葉を換えれば多作なマンガ家ほど多くのペン先を使用することは言うまでもない。その点で行けばボクは画質が画質だけに、ペン数は多いだろうが、決して多作ではない。ただ、自分の仕事の勢いや、流れを見るには格好のバロメーターではないかと考えて、1グロスの封を切る度に、その箱の裏側に使用開始と使用終了の日付けを記して来た。

その記録の一端を紹介しよう。

95/09/17~96/08/26
97/07/03~98/05/22
00/06/12~01/11/03
02/11/05~04/03/04

この日付でわかることは、ボクは1グロスを使い切るのにほぼ一年を要している、ということである。だが、なかには一年半や二年近くもかかっている年もある。おそらくそんな年は仕事運に恵まれず、あまり多くの原稿依頼がなかったことを意味するわけで、マンガ家生活の浮沈を見る思いである。

さて、そんなわけで今日新しいグロスの封を切ったのだが、日付を記しながらこれまでに味わったことのない思いにかられた。

果して次のグロスの封が切れるだろうか、という思いである。
つまり、ボクは今年の誕生日を迎えると65歳を数える。

せめて、もう1グロスは封を切りたいものだ。
アクセスして下さるファンの皆さんへ   更新日時:2004/04/01

ボクのホームページも本日(4月1日)をもってどうにか「開設満一周年」を迎えることが出来ました。ひとえにファンの皆さんのおかげだと感謝申し上げます。今後も「楽しいホームページ」を目ざし、より一層内容の充実を図り、多くの情報を発信して参りますので、アクセスよろしくお願い致します。



さて、先日北海道のYUKOさんから次のようなファンレターをいただきましたのでご紹介させていただきます。

つい先日テレビを観ていて驚きました。どこかの国では、何か一つの事に熱中している人のことを「サンペイ」と呼んでいて、その由来が「釣りキチ三平」とのことでした。では「釣りキチ三平」に熱中している私は「三平サンペイ」なのかと、一人で笑ってしまいました。ボクは残念ながらその番組は観ていなかったので知りませんでした。が、それが放送された直後だったでしょうか、行き付けの寿司屋に立ち寄ったら馴染のお客さんからそのことを知らされました。そのお客さんが言うには、国名は「イタリア」ということでした。

さっそく編集部に連絡して、現在真偽のほどを確かめてもらっているところです。しかし、どうやらウソではなさそうな気がしています。その証拠に現在、「平成版 釣りキチ三平」がイタリアで発売される話が進んでいて、イタリア語の翻訳作業が進行中ということです。

「サンペイ」が外国語になるなんて・・・ハハハハ・・・・・・・
アシスタント募集   更新日時:2004/05/07
ボク(矢口プロ)は現在アシスタントを募集している。

応募資格は次の通り。

① 年齢18~23歳までの、将来マンガ家を夢見る、意欲のある男性1~2名

② 送付書類  履歴書、自作品(コピーでも可)
「釣りキチ三平/平成版」の任意の2ページを模写

③ 審査後に面接にて決定

以上



さて、こうした募集要項を例えば新聞等に掲載しようとしたら、たいていは断られる。
何故か。求める人材が「男性」という個所が、男女雇用機会均等法に抵触するからだ。
でも、ボクが必要としているのは「意欲のある男性」である。

苦い経験がある。もう30年も前のことだが女性のアシスタントを一人採用したことがあった。他の男性アシスタントが色めき立って仕事に集中するだろうことを期待しての採用だった。

が、結果は全くの裏目と出た。

男性アシスタント全員が求愛合戦を繰り広げて、アトリエ内が滅茶苦茶になってしまったのだ。
男女雇用機会均等法の精神は十分に理解しているし、尊重しなければならないこともわかってはいる。・・・が、マンガ制作というかなりストイックな場は、チームワークが最も大切な場でもある。いい作品を描くためにも、是非この要項をご理解いただきたい。意欲に満ち溢れた有望な男性の若者よ、来たれ・・・!!!

先日、こんなファンレターをいただいた。

「釣りキチ三平/CLASSIC」で毎号プレゼントされている表紙絵のクオカードの件ですが、何度チャレンジしてみても一度も当ったことがありません。そこで提案ですが、これまでの分をまとめて、先生の特製ケースに納めて販売して下さるよう講談社の担当者に進言していただきたくペンを取りました。このクオカード、三平ファンならば誰もが入手したい必須アイテムです。是非よろしくお願い致します。

ただちに担当者に進言致しました。近いうちに要望に叶う企画が発表されると思います。ご期待下さい。
「B級作品」   更新日時:2004/05/07
先日、マンガ界の巨匠「横山光輝氏」がお亡くなりになった。心よりご冥福をお祈り申し上げたいのだが、天寿を真っ当うしてのものではなく、みしろ予期せぬ非業の最期だったことを思うとき、その無念さはいかばかりだったろう。

ただただ胸に痛い思いである。

横山光輝作品は、少年の頃より愛読させていただいたボクであるが、同業者(マンガ家)として三十有余年時代を共にしたきたにも拘らず、一度としてそのご尊顔を拝する機会がなかった。それが残念でならない。とにかくヒットメーカーだった。

「鉄人28号」はもとより、「魔法使いサリー」、「伊賀の影丸」、「飛騨の赤影」、「バビル2世」、「闇の土鬼」等々、タイトルを挙げるだけでもキリがない。

しかし、そうしたヒット作を連発したにも拘らず、不思議にマンガ賞という
「賞」に縁のない大家だった。

そんな横山氏が賞に輝いたのは平成3年のことで、「第20回 日本漫画家協会賞・優秀賞」だった。この賞は日本漫画家協会が創設した賞で、審査するのは漫画家協会員である。つまり、プロのマンガ家がプロの作品を審査して決めるわけで、日本に数あるマンガ賞のなかでは最も権威のある賞とされている。

ちなみにボクは、なんとラッキーなことにまだ駆け出し時代の昭和48年度にこの賞を得ている。「マタギ」で第5回日本漫画家協会賞・大賞(グランプリ)に輝やいたのだ。

それはさて置き、横山光輝氏が優秀賞に輝いた平成3年9月30日号の「漫協会報」に、審査員の一人だった故・石ノ森章太郎氏が次のような選評を寄せている。

「優秀賞の一人、大ベテラン横山光輝氏の諸作品は、当初からそのほとんどが
“B級作品”だった。失礼ながら・・・・・とは言わない。何故なら映画は”B級作品”が一番面白い。小説もそうだし、マンガもまた然りだからだ。これらのメディアが、その成り立ちから持つエンターテイメント性と、それを求める大衆感覚がぴったりフィットするつくりをしたのが、いわゆる”B級”と称される作品だと思うからだ。

・・・が、そのあまりの俗っぽさ故に、こうした賞の対象にはなかなかなり難い、と言うのも困った事実。・・・と言う理由から、今回の横山氏の受賞は、マンガ家がマンガ家を選ぶという賞のひとつの見識を示すものとして、同氏とともに喜びにたえない」

この故・石ノ森氏の選評は名言であり、ボクも全く同感で、惜しみない拍手を贈ったものだった。

しかし、故・石ノ森氏の選評にもあるようにマンガ家には避けて通れない大きな壁がある。「時代の大衆感覚にぴったりフィットした作品づくり」という難関である。人間は誰でも年を取る。年を取るごとに作品づくりの経験(方法やテクニック)は増すが、逆に若い読者の求める大衆感覚からは次第に遊離してしまう。換言すれば、マンガ家にとってのキャリアは錆や垢となってこびりついてしまう、と言っても過言ではないだろう。

横山光輝氏は、その錆や垢を見事なまでに払拭したマンガ家だった・・・とボクは思う。つまり、若い流行のセンスに対抗する鉱脈を発見したのだ。それは、流行り廃りのない、永久不変のテーマに取り組んだことだ。

「三国志」や「史記」がそれだった・・・・と思う。

ご冥福をお祈り申し上げます。

矢口高雄

「くろかみ」   更新日時:2004/05/08
最近、やたらと目覚めが早い。老境に入ったということだろう。いつの頃からかお酒の力を借りて眠るのが習慣になった。仕事がストイックなだけに、お酒でリラックスする要領を得たということだ。・・・が、その作用が功を奏してか、たちまち熟睡に達し、結果目覚めが早くなってしまうのだろう。

つい先日、といってもその日は仕事の休み日に当っていたのだが、早目にリラックスタイムに入ったこともあり、酔いも手伝って午後の十時過ぎには轟沈していた。轟沈の寸前に「ヤバイ!」と思った。・・・が、後の祭りだった。案の定、たちまち目覚めが訪れた。時計を見ると、午前0時を近し回った頃だった。

そんなことを繰り返す昨今だから、近頃のボクはあわてない。いまさら眠ろうと焦ったところで眠れるものでもない。だからすぐテレビをつける。深夜放送をゆったりと観ながら、眠くなるまでボンヤリとした時を過ごす。慣れてくると、これも悪くはない。思わぬ見つけものをすることもある。教育チャンネルで高校の数学をやっていたりすると、すっかり高校生に戻った気分で「 y = f (x)」などという関数問題に必死に取り組んでいる。

そんなことをしているうちに、また自然に眠くなる。それが「ズームインスーパー」の始まる頃であったり、時にはNHKの七時の「おはよう日本」であったりしてもかまわない。心のおもむくままに眠るのだ。

ここでつい先日にもどろう。なにしろこの日目覚めたのは午前0時を少し回ったぐらいだったので当然夜明けまでにはかなりの間があった。だから、ただちにテレビをつけた。NHKのBS-1だった。アメリカからのゴルフ中継で、日本の田中秀道プロが”-14″の好スコアで四位タイとなっていた。明日が決勝ラウンドだと言う。眠さはすっかり吹き飛んで、思わず田中プロに加勢していた。

やがてその中継も終り、画面は次の番組へと切り代わった。その番組のタイトルは覚えていない。・・・が、日本のある年代の世相を切り撮ったシリーズで以前にも目覚めタイムに観たことがあった。アナウンサーのナレーションは一切ない。バックミュージックとして、その時代に流行った唄や曲が流れるだけ。

例えばダッコちゃんやフラフープやミニスカートが流行した時代であれば、
その時代の老若男女の動行を淡々と記録した画面が、様々な角度から映し出されて行く。懐かしさも湧いて来る。こんな時代もあって、今日があるんだなァ・・・と、しばし感慨にふける。

この日の放送は、ボク流のタイトルをつけるとしたら「1990年の日本の若者たち」だった。

わずか14年前の日本である。服装も色彩も今日とはそんなには変っていなかった。紺の制服に白いソックスの女学生。肩パットをしたスーツ姿のOLたち。原宿や渋谷の人混み。どれ一つとして今日とほとんど変らない世相だった。

しかし、たった一つ大きな異変を発見して思わずタメ息をついた。それは、その映像のなかに「茶髪」の若者を一人として発見することがなかったことだ。
茶髪を見慣れた昨今、ボクのなかにはそれに対する偏見はないものと思っていただが、わずか14年前の日本の世相に妙な清々しさを感じていた。内面はさて置くとしても、黒髪の若者たちには、今日には感じられない純粋さや、清純さを感じたことは確かだった。

日本人には、やはり黒髪が良く似合う・・・と言ったらボクは古い人間だと思われるだろうか。
「元気の出る対談」を振り返って・・・   更新日時:2004/08/06
「釣りキチ三平/CLASSIC」の巻頭に「元気の出る対談」というページがある。

創刊(2003/5月)を記念して企画されたページで、毎月お一人のゲストをお迎えし、ボクとの対談を前後編2回に分けて掲載している。つまり、近刊31号で1年4ヶ月を数え、ご登場いただいたゲストが16名にのぼる。その方々を列記(敬称略)してみよう。

① 増岡浩(パリダカラリー2連覇)
② 薬丸裕英(元・シブがき隊。現在「花まるマーケット」の司会)
③ 清水国明(元・あのねのね。アウトドア)
④ 宮沢和史(THE BOOMのヴォーカル)
⑤ ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス。岩手県議会議員)
⑥ みなみやんぼう(シンガーソングライター)
⑦ 田中康夫(小説家。長野県知事)
⑧ 片山右京(F1レーサー)
⑨ 水島新司(漫画家)
⑩ 井上康生(シドニー五輪柔道金メダリスト)
⑪ 舞の海秀平(NHK大相撲解説者)
⑫ 増岡浩(創刊号に続き2回目)
⑬ 林家木久蔵(落語家)
⑭ 三木たかし(作曲家)
⑮ 秋元治(漫画家)
⑯ 新井敏弘(WRCドライバー)

「元気の出る対談」の始まった頭初は、ボクも随分不慣れで、しどろもどろしたものだが、さすがにこれだけのゲストを迎えて一年半近くも対談していると、近頃ではだいぶ心にゆとりが生じて来ている。それにしても振り返って、なんと壮々たるゲストと対談したことだろう。

しかし、対談を繰り返しながら、内心残念に思うことが一つあった。それは、女性のゲストに一人として恵まれなかったことである。その点は、もちろん担当編集者には口が酸っぱくなる程申出てはいたのだが、ラチが明かないまま時だけがいたずらに過ぎた。

が、待てば海路の日和りありである。ついにその日が来た。7月22日、彼女はこの日来年度のカレンダー撮影のため目黒雅叙園にいた。つまりボクはそこへ押しかけて対談となったのだが、撮影が終った彼女はカレンダー姿そのままにいそいそと現われた。

妖艶な和服姿の美人歌手「藤あや子」さんだった。

対談はCLASSIC/32号(9/5発売)と33号(9/20発売)に掲載されます。是非本誌でお読み下さい。尚、今後予定されているゲストは中山雅史さん(サッカー選手)、氷川きよしさん(歌手)、そして加山雄三さん(歌手、俳優)・・・と目白押しです。ご期待下さい。
1グロスのGペン Ⅱ   更新日時:2004/09/20
今年(2004)の3月5日だったと思うが、ボクはこのコラム欄に「1グロスのGペン」と題する一文を発表した。

そのコラムを書こうと思い立った動機は、ちょうどその日(04/3/4)にプロマンガ家となって以来何グロス目かのペン先を使い終え、新しい1グロスの封を切ったばかりだったからだ。



マンガ家がどれほどのペン先を使用するかは、もちろん描く原稿枚数に比例することは言うまでもない。多作なマンガ家であれば当然多く使うだろうし、筆圧をあまりかけない絵柄のマンガ家はペンの摩滅も少ないだろう。

その点でのボクはと言えば比較的緻密な絵柄だけにペン数は多い方だが、決して多作ではない。しかし、自分の仕事の勢いや、流れを見るには格好のバロメーターになるのではないかと考えて、1グロスの封を切る度に、その箱の裏側に使用開始と終了の日付けを記して来た。

95/09/17~96/08/26
97/07/03~98/05/22
00/06/12~01/11/03
02/11/05~04/03/04

この日付でわかることは、ここ10年ぐらいのボクは1グロスを使い切るのにほぼ1年を要していることになる。・・・が、なかには1年半や2年近くも要している時期もあり、マンガ家生活の浮沈を見る思いである。そして、この「1グロスのGペン」のコラムの締めくくりとしてボクは次のように記している。

・・・さて、そんなわけで新しいグロスの封を切ったのだが、日付けを記しながらこれまでに味わったことのない思いにかられた。果たして次のグロスの封が切れるだろうか・・・・という思いである。つまり、ボクは今年の誕生日(10/28)を迎えると65歳を数える。せめて、もう1グロスは封を切りたいものだ・・・と。

ところでこのコラムだが、「最低月一本は必ず書いてネ!!」と、コラム担当の娘には毎度しつこく催促されている。その都度首をタテに振ってはいるのだが、なかなかそうはいかないのが現実だ。自分ではぐうたらではない積りだが、長年身にしみついたマンガ家の習性とでもいうものだろうか、締切りがないとズルズル先送りしてしまう。

「1グロスのGペン」も、そんな日々のなかで少しは娘の催促に応えようと、
ちょっと感傷的な気分に浸りながら書いて渡した原稿だった。が、それを読みながら必死にキーボードを叩く娘の横顔に、いつにない寂しそうな影が宿っていて、ハッとした。常に毅然としているはずの父の内面をのぞいた娘の、
正直な心情だったのだろう。書くべきコラムではなかった、と胸が痛んだ。



「1グロスのGペン Ⅱ」を書こうと思ったのは、そんな娘に対するお詫びの気持ちからである。つまり、あの日から6ヶ月余りを経たつい昨日(9/19)、なんと新たなグロスの封を切ったのだ。

自分としては予想外に早い開封で驚いている。オレもまだまだかも知れない・・・・・。
「元気の出る対談」で拾った名言   更新日時:2004/10/22


その1

「相撲の世界は平等だ。プロ野球選手などと違って相撲協会に所属する全員が毎場所出場出来る仕組みになっている。つまり、全員にチャンスがあるというわけだ。」 舞の海秀平

なるほどと思った。・・・・と同時にいくつもの疑問もかけめぐった。果してスポーツの世界に真の意味の”平等”って存在するだろうか。

野球におけるボール、ストライクの判定。体操競技における採点。向い風が飛距離に大きく作用するジャンプ競技。

どれを取ってみても”平等”とは言えないものが存在する様に思えてならない。強いて限りなく平等に近いものを挙げるとしたら、マラソン競技だろう。あれだけの長距離を走るわけだから、もうこれは”限りなく平等”と言える、とボクは思うのだが・・・・・。

その2

「当り前のことを当り前に出来る選手が名選手である」 ゴン・中山雅史

けだし名言である。一つだけボクなりのコメントを加えると、そんな選手のプレイは決してファインプレイには見えない。そこがすごいことだとボクは思う。

その3

「うまい物は迷彩をほどこしていて、人間の眼にはなかなか見つかりにくい」 石塚英彦(ホンジャマカ)

これは名言というよりも「迷言」かも知れない。石塚氏がこの言にたどりついたのは、テレビ番組ロケの苦労からだったと言う。つまり、その一つが千倉(千葉県)の海にもぐってのアワビ漁。そしてもう一つは長野県での松茸狩り。「アワビも松茸も極上の食材だけど、どちらもホントに見つけにくかった・・・・」が、石塚氏の弁だった
あっ、今日はオレの誕生日だった!!   更新日時:2004/10/29


10月28日、つつがなく65回目の誕生日を迎えました。

友人知人や多くのファンの方々から、お花や祝電、そしてネットを通じてたくさんのお祝いのメッセージをいただきました。心よりお礼申し上げます。

当日ボクは茨城県、鹿島のホテルに前泊していました。「元気の出る対談」の20回目で、バスプロの並木敏成氏との対談のためでした。

対談は並木プロのボートで霞ヶ浦に乗り出し、ひとしきりバスフィッシングを楽しんだ後、氏のスポンサーであるプロショップに立ち寄り、グラビア用の数々のショットを撮影。再びホテルに帰り昼食をはさんで、いよいよ対談となりました。



対談の内容はいずれ「CLASSIC」に掲載されますから、乞う御期待というところですが、この対談の恒例となっているのは、対談相手にボクから心ばかりの色紙をプレゼントするというコーナーがあります。

その色紙はいつもなら対談の前日に自宅で描いて持参するのですが、この日はどうしても時間がとれず、当日並木氏の目前で描いて差し上げるという、誠の手際の悪い運びになってしまいました。

しかし、そんな手際の悪さが、逆に並木氏にとっては目の前で自分宛の色紙が
描かれて行く過程をつぶさに見る機会となったわけで、感動の面持ちでした。

が、その顔を見てボクは初めて気付いたのです。つまり、色紙を描き終え、サインを入れ日付を記そうとしたとたん「あっ、そうだ!今日はオレの誕生日だった!!」と、思わず声を発していたのです。

記念すべき誕生日の日付の入った色紙を手にした並木氏は二重の感激にひたっていました。
「エッセイスト」更新日時:2004/12/01
ボクのプロフィールには「マンガ家」の他にもう一つ「エッセイスト」なる肩書きが付けられて紹介されているケースがある。

これは、おそらくボクがこれまでにマンガ作品執筆のかたわら、結構精力的に
多くのエッセイを発表して来たことによるものだろう。もとよりボクは文章の専門家ではないから「エッセイスト」なる肩書きにはいささか面映いものがある。・・・・と言っても「マンガ」そのものもこれと言った専門の教育を受けたわけではないし、師について学んだわけでもない。

全くの我流でやって来ただけのことである。しかし、我流とは言っても、それが成立しているということは、作品創りの鉄則というものがあるとすれば、それに叶っていると言うことになるだろう。



それはさて置き「エッセイスト」である。いつからボクにそんな肩書きが付くようになったのか不明だ。ただ、かなり以前の話だが、こんなことがあった。

書き下ろしエッセイ集「ボクの学校は山と川」(初版1987年9月)が出版されてほどない頃、とある著名な文筆家から大変お褒めのおハガキを頂戴した。

「この度のエッセイ集は実に素晴らしかったので、本年度の日本エッセイストクラブ賞に推薦したいと思っている」

これには本当に驚いた。・・・と同時に世間には、ボクごときの拙文を読んで下さっている御仁もおられるんだなァ・・・・と感慨にひたったものだった。
が、御仁の推薦のお言葉もむなしく、エッセイストクラブ賞の栄に浴することはなかった。

だからと言って、ボクに落胆などありはしなかった。別に文章の専門家でもないわけで・・・・・・。



だが、事態は大きく変った。この「ボクの学校は山と川」が翌年の毎日新聞社主催「夏休み読書感想文コンクール」高校の部の課題図書に指定され、大増刷という事態に発展したのだ。

さらに加えて、この中の数点が中学の国語、高校の英語の他、小、中学校の
道徳教育の福読本に次々と採択されたのだ。

そんな1992年、月刊「宝石」より短いエッセイの依頼があった「テーマはご自由に・・・・・・」という依頼だったので気軽に引き受けた。「テンプラ校門」と題する一文を書いた。たわいのない一文だったので、発表誌をチラッと見ただけで、いつしか書いたことさえ忘れていた。

青天の霹靂(へきれき)とは、得てしてこんな時におこるのだろう。なんと、この一文がこの年の日本エッセイストクラブ編の「92年版ベストエッセイ集」(文芸春秋)に集録されたのだ。

ボクのプロフィールに「エッセイスト」なる肩書きが付記されるようになったのは、この頃からだったと思う。
「一人よがり」更新日時:2004/12/01
そんな肩書きがモノを言ったのか、ボクはあるエッセイコンテストの審査員をおおせつかっている。JR東日本とサンケイ新聞社が主催する「JR東日本で行く感動の旅紀行文コンテスト」で、今年で11回を数える。その審査委員会で毎回のように繰り返される選評がある。

「一人よがり」である。


「YOSUI TRIBUTE」を聴きながら踊る矢口。おいおい!!腰は大丈夫か?!

「一人よがり」を広辞苑で引くと
– 自分一人だけで良いと思って、他人の説を顧みないこと - ・・・・とある。文章を書く時最も気を付けなければならないのはコレである。

一例だが「すごく感動した」という応募作があるとしよう。だが読んでみると何故感動したのかさっぱり伝わって来ない・・・という例が実に多いのだ。自分の体験を文章に綴っているわけだから、その場の情景や、その時の感情は、その当人が一番良く知っているはずである。なのに読者には伝わって来ないのは、自分の知っていることは他人にもわかるだろうと錯覚して書いているからにほかならない。

それが「一人よがり」というものだろう。


更に踊りがエキサイト!!もう、どうにもト・マ・ラ・ナ・イ~!!

日記ならばそれでいいだろう。しかし、少なくともコンテストに応募しようとして書く一文だから、読者に読んでもらうということを十分意識して書く必要がある。自分の胸の内を100パーセント相手に伝えようと細心の配慮をして書く必要がある。

審査員の一人に小説家の赤瀬川隼人氏がいる。そこで氏に「一人よがり」を防ぐコツを聞いてみた。赤瀬川氏はひとしきり腕を組んで考えていたが、腕をほどくやボツリと言った。

「ないネ・・・・・・」

「それは文章を書く人間の資質であり、センスなんだヨ」・・・・・と。

だがボクには言下にそう言ってのける自信はない。
・・・が、文章に限らずマンガにもそれは言えそうだ。


何故か異常なくらい陽気な矢口。しばらく踊ってました(笑)。

もしかしたら読者に100パーセントわかるように細心の配慮する能力が、
モノ書きのセンスなのかも知れない。
「シルバーシート」更新日時:2004/12/30
マンガ家は、とにかく締切りに追いまくられるのが日常的な職業なので、
めったに同業者と会う機会がない。

しかし、毎年の年の瀬にプロのマンガ家が一堂に会する2大イベントがある。
小学館と講談社が行う忘年パーティがそれで、今年は小学館が12月16日、
講談社が12月27日、いずれも「帝国ホテル」でにぎやかに行われた。

ボクが初めてそのパーティに招かれたのは、デビューした昭和45年の暮れだった。立錐の余地もなく埋めつくされた会場には6~7百人ぐらいの参加者がいただろうか。

もちろんボクはデビューしたての新人だから、会場にはボクを知る人は
担当編集者以外はいないわけだが、逆にボク側から見れば知ってる顔ばかりで、興奮の連続だった。

石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、ちばてつや、さいとう・たかを、水島新司、つのだじろう、松本零士・・・等々の人気マンガ家の顔が輝やいていた。

・・・と、会場の入口あたりがにわかにざわめいた。
見ると、その一角がまるでスポットライトを浴びた様に光り輝やいていた。

手塚先生の入場だった。

遠い少年の日にシビれ、あこがれた手塚先生のナマの姿を見たのは、これが初めてだった。思わずかけ寄っていた。もちろん握手を求めたり、会話を交すほどずうずうしいボクではなかった。ただ背後にピッタリ寄り添い、どんな声で、どんな会話をしているのかを耳をダンボにして聞くだけで充分だった。

思えば、あれから34年の歳月が流れた。

12年2ヶ月の銀行マン生活を経て、遅ればせながら出て来たボクも
どうにか仲間に加えてもらい、多くの知己を得た。
しかしこの頃そうしたマンガ界に不思議な現象が起きている。

劇画の御大さいとう・たかを氏の言葉を借りれば「近頃、若いマンガ家の顔も名前もさっぱりわからん」・・・・である。

当時に比べてマンガ誌の数も増え、当然マンガ家の人数も増えているはずなのに、マンガ家の顔と名前が全く見えない時代になってしまった、というのである。これにはボクも全く同感である。

以前ならば、例えばボクが手塚先生のうしろに金魚のフンのようにつきまとったように、人気マンガ家のまわりを新人マンガ家がとり囲むという現象があったが、近頃の若いマンガ家にはそれがないのだ。

この現象は、おそらくマンガ家の専属制によるものだろう。

ボクらの時代はいわゆるフリーで、どこの出版社の出版物でも自由に描けた。
だが、今日ではほとんどのマンガ家が出版社と専属契約を結んでいて、その出版社の出版物以外には描くことが出来ないというシステムが確立している。その功罪はここではさて置くとしても、そうしたシステムの元ではマンガ家同志の交流はあまり歓迎されないという風潮もあるのかも知れない。

とにかく、そんなこともあって近年のパーティでは、若いマンガ家たちの顔も名前もわからないものだから、必然的に知ってる顔同志が一角に寄り合ってしまう。その面々はフリー時代の人気マンガ家たちであり、大ベテランたちがひっそり肩を寄せ合っているという構図になってしまった。寂しいという表現もあるが、時代の流れと言うしかないだろう。

そんな時代の流れを象徴しているのが、さいとう・たかを氏の発案で設けられた「シルバーシート」だろう。

2時間余りの立食パーティに堪えられないベテランマンガ家のために、
一角のテーブルに椅子を配したのだ。

かくして今年のシルバーシートに寄り添ったメンバーは、藤子不二雄・A氏(70)、さいとう・たかを氏(68)、つのだじろう氏(68)、ちばてつや氏(65)、そしてボク(65)だった。ハハハハ・・・

そんなボクも来年はマンガ家生活35周年を迎える。一つの通追点と考えたいところだが、充実した35年目を意欲的に乗り切りたいと思ってる。