矢口高雄の独り言 2006

新年明けましておめでとうございます。  更新日時:2006/01/01
それにしれも、あっという間の一年でした。・・・と、また今年もこんな書き出しをしている自分に気付き、苦笑せざるを得ません。人間は高齢に達するほどに一年の経過が早く感ずるようになる・・・というのが世間の通り相場なわけですが、一体何歳ぐらいから早く感ずるようになるのでしょう。

記憶では、小学生や中学生の頃にはすごく長く感じたものです。指折り数えて待つ正月などという慣用句もありましたし、特にボクの場合は雪国育ちでしたので、冬はうんざりする程長いものでした。そういえば日本列島は昨年末より記録的な寒波の襲来で、名古屋や鹿児島までも大雪に見舞われました。ま、とは言ってもボクの郷里秋田の冬と来たら毎日が雪、雪、雪で、見上げても見渡しても白一色で、ただひたすら耐え忍ぶしかなかった・・・・というのが実感でした。しかし、それ故に春の訪れはただにうれしく、雪国の人間でなければ味わえない喜びがあったわけですが・・・。

かえりみて、一年の経過が早いと感じたのは、やはりマンガ家となった三十歳あたりからだったろうか・・・週に2~3夜は徹夜をしなければならなくなったことと、マンガ家という職種が、漁師さんやお百姓さんのように季節の移ろいに身を委ねる必要のない仕事だったことが、ことさら短く感じたのでしょう。

例えば、暑い夏の盛りだったとしましょう。アトリエ(マンションの一室)は連日クーラーをガンガン効かせての作業ですから、暑さ知らずに時が過ぎて行きます。でも、そんなある夜の帰宅の道すがら、突然という感じに虫の音が聞こえて来ることがあります。知らぬ間に季節が過ぎてしまっているのです。

「ああ・・・、もう夏が終わってるんだ・・・」

と思ったとたん、何か大切なものを置き去りにして来てしまったような、寂しくやるせない気持ちになりました。

つまり、一年が短く感じる原因は、仕事に埋没するあまり、季節の移ろいに気付かずに過ぎているということなのでしょう。

まあ、そんな詮索はさて置くとして、今年はどんな年になることだろう。
願わくばほどほどに忙しく、健康で、ときめきのある一年であって欲しいものです。
人間は病気では死なない。寿命で死ぬのだ。・・・その1  更新日時:2006/02/03
その日(1/19)、ボクは「世界子ども愛樹祭コンクール」(福岡県矢部村主催)の審査委員会があって、市ヶ谷の私学会館にいた。「愛樹」をテーマとした作文と絵画のコンクールで、今年で15回を数えるが、その審査委員を拝命してもう五~六年になるだろう。

審査も無事終了し、委員と主催者側との懇親を兼ねた食事会もあって、帰途についたのは八時を回ったぐらいだったろうか。しかし、審査のために高まったテンションはなかなか鎮まらず、もう少しインターバルを取ってから帰宅しようと、アトリエ(自由が丘のボクの仕事場)の近くにある行きつけの寿司屋に立ち寄った。

いつもなら弾んだ声と笑顔で迎えてくれる店主だった。・・・・が、この日はボクが入るなり声を押えて真顔で『つい先程妹さんが見えられて、兄さんが立ち寄ったら至急携帯にデンワするようにって・・・・』

妹とは、もちろんボクの妹だが、矢口プロのマネージャーでもある。マネージャーだから、当然ボクが「愛樹祭コンクール」の審査に出かけたことは知っている。しかし、僕は携帯デンワを持っていない(今のところ持たない主義とでも言おうか)から、連絡が取れない。だから、ボクが日頃良く立ち寄る寿司屋を思い出し言伝てたに違いない。

『どんな用件か言ってませんでしたか・・・・・?』
『言ってませんでしたが、何かとっても緊急の様子でした』

とたんにボクの脳裏を「おふくろ」の顔がよぎった。おふくろは今年数えて八十八という高齢である。加えて近年は足腰もかなり衰え、夏は郷里秋田で一人暮しをしてはいるが、冬期は雪を逃れ上京し、子どもたちのもとで暮らしている。現にこの冬も暮れの十二月三十日に上京し、妹(マネージャー)のもとに身を寄せていた。そのおふくろの身に何かあったに違いない。

取るものも取りあえずデンワした。案の定だった。『急に体調が悪くなって、救急車でS大病院に運んだところ。今、救急救命センターというところで検査中だけど、意識ははっきりしてるみたいで・・・』『よし、すぐ行くけど、まさかハズれ(脱臼)たんじゃないだろうな・・・!?』『それはないみたい』

すぐにタクシーを拾った。S大病院まではタクシーで十五分ほどの距離である。車中のボクは、自分でも不思議なくらい冷静だった。

おふくろの足腰の衰えには注釈をつけねばなるまい。長年にわたる農作業という重労働がたたってか股関節が摺り減り、十数年程前に人工関節を入れた。
ところがこの関節、ちょっと不自然な体位をとったとたんに、ポコンと脱臼することがある。脱臼したら、さあ大変。激痛が走り身動き出来ない。救急車で運んで、麻酔を打ってハメてもらうのだが、ハズれたあたりの組織が痛んで、完治するまでには一ヶ月余りの入院を余儀なくされる。おふくろはこれまでに、その脱臼を三度も体験した。・・・が、この夜はどうやらソレではないらしい。

そう言えば二年程前「軽い脳梗塞気味だと医者に言われた」というおふくろの言葉を思い出した。だが、それが本格的な脳梗塞に移行したというのならば、「意識がはっきりしている」というマネージャーの言葉とは矛盾する。いや、そんな詮索はどうでもいい。今は、とにかく一刻も早くおふくろに対面することが先決だ。

タクシーが夜のS大病院の救命センターに着いた。小走りにロビーを抜けると、待合室には深刻な顔をした二十人程の人たちがいた。おそらく急患として担ぎ込まれた人の親戚たちだろう。その一角にボクの妻とマネージャーの顔があった。更に横浜と町田に住む二人の妹も馳せ参じていて、ボクの到着にホッと安堵の色を浮かべた。

担ぎ込まれて、一時間近い検査が行われた後主治医が現れ、ボクと妻とマネージャーの三人が狭い個室に通された。主治医による病状の説明だった。『なお詳しい検査を続行中だが、どうやら膀胱より大腸菌が侵入したようだ。その菌が血管やリンパ管に入り、体中にまわって、あちこちに炎症を起こしている。従って病名としては「敗血症」と言うことになるが、このまま進行すれば「多臓器不全」という結果を招き、最悪死に至ることも充分考えられる』

主治医の説明は簡潔明瞭であり、説得力があった。『とにかく、極度に血圧が低下しているし、呼吸困難に陥っているので、大変危険な状態だから、我々としては早速治療に入りたい。』・・・と言うことになって、何枚かの治療に関する承諾書や同意書へのサインを求められた。こうなってはボクらの取るべき道は、すべての運命を医師に委ねるしかなかった。

説明を終えた医師は直ちに席を立ち、ボクらを誘導した。治療に入る前のおふくろとの面会の場をもうけてくれたのだ。

おふくろは、物々しいベッドの上に横たわっていた。両手には数本の点滴の管が刺し込まれ、口は酸素の吸入マスクに塞がれていて、呼吸困難を来していることは素人の目にも明白だった。

『母さん、オレだよ、わかるか・・・・・?』

おふくろは弱々しい呼吸のなかでうっすらと目を開き、コクリとうなづいた。
たしかに意識は失っていない。妻や妹たちも次々と声をかけたが、その都度気丈に反応を示した。
そんなボクの耳元に、医師は小声で治療方針を説明した。
『低下した血圧は輸血で回復を計りたい。体内に漫延している雑菌類は抗生物質でたたくこといするし、呼吸困難を柔らげるために気道を拡張し人工呼吸器を装着します。ただし、人工呼吸器を装着するためには一晩ほど眠ってもらわなければなりません。その眠りから醒めるまでが勝負です。意識はしっかりしていますから脳梗塞の心配はないでしょう。しかし、いずれにせよ八十八歳という年齢ですので、そうした治療に果して絶えられる体力があるかどうかが問題です』

『すべておまかせしますので、よろしくお願いします』
深々と頭を下げて集中治療室を後にするしかないボクだった。

おふくろに対する本格的な治療は、それからほどなく開始されたのだろう。
ICUに隔離されたおふくろは、もはやボクらの立ち入る術のない存在となった。ただ、ICU装置の設定がすべて完了した段階を見届けて欲しいとの要請があったので、ボクとマネージャーだけが残って、妻と二人の妹は帰宅した。

ボクとマネージャーは、それから延々と誰もいない待合室に座り続けることになる。結果的には、ICU室からお呼びがかかったのは深夜の二時近くだった。・・・が、その時間が長かったのか短かったのか、ボクには実感として残っていない。正直に申し上げよう。この待ち時間の間にボクが考えていたことは、これがおふくろとの永久の別れになるかも知れない・・・・だった。

いや、不謹慎の非難を受けることを覚悟の上で言えば、
おふくろの亡き後の葬儀の段取りさえも考えていた。
人間は病気では死なない。寿命で死ぬのだ。・・・その2  更新日時:2006/02/15
集中治療室からの呼び出しを受け、再び対面となったのは深夜の二時近くのことだった。

あまりにも非日常的な光景に、呆然と立ち尽くすしかなかった。ベッドの頭上には無数の点滴のバッグがぶら下がり、そこから垂れている管はおふくろの両手首はおろか、首筋や鼻、口の中へと没していた。なかでも口に差し込まれてた人工呼吸器は、息をする度に痛々しい音を繰り返し、それらの数値がおびたたしい計器とモニターに刻々と記されていた。もちろんおふくろは前後不覚に眠らされている。

どんな世界をさまよっているのだろう・・・・

この夜は、そこまでだった。付き添う看護士さんたちに深々と頭を下げて帰るしかなかった。」

帰宅するや、まずは一風呂浴びた。さしたる空腹感はなかったが、妻が軽いお茶漬けを準備してくれていたので、一気に掻き込んだ。冷静を囲ったつもりだったが、やはり心は芯から疲れていた。こんな時はアルコールに限る。アルコールで五体をバラバラに分解し、リラックスさせる必要がある。

しかし、眠れなかった。グラスを重ねるボクの脳裏には、歌人「斉藤茂吉」の歌が去来した。

みちのくの母の命を一目見ん 一目見んとてただに急げり
死に近き母に添い寝のしんしんと 遠田の蛙天に聞こゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいて 足乳根の母は死にたまふなり

結局、眠りについたのは五時を回った頃だったろうか。普段のボクならば朝の十時には起床し、近くのジムのプールに行くのが日課である。だが、この朝はさすがにその日課を放棄し、十一時半近くまで眠った。睡眠は当然足りなかった。・・・が、しゃにむに起きた。おふくろとの面会時間が、正午~一時までと、夕刻の十八時~二十時までの二回と決められていたからだ。

マネージャー(妹)が、大きな紙袋を二つほど抱えてやって来た。昨夜看護士さんから入院に必要な品々を揃えるようにと言い渡され、早々とそれらを調達して来たようだ。マネージャーも、やはり昨夜はまんじりともしなかったと言う。取るものも取りあえずタクシーに飛び乗り病院へと向かった。

一夜明けたおふくろの容態はどうなっているだろう。

救急救命センターの入り口にはインターフォンがある。そのボタンを押して、入室の許可を得ると扉が開く。一歩は入るとそこには洗面台が設えられていて、そこで手を洗い、更にアルコールで消毒してから面会となる。

おふくろのベッドは、救命センターの一番奥だ。固唾をのんで歩を進めると、
昨夜とは一変した痛々しい姿があった。数本もの点滴を差し込まれた両手首はもちろんだが、特に人工呼吸器をほどこされた口や喉もとのあたりがひどく腫れ上がって、別人を思わせたボクと、マネージャーの面会を知って、担当の看護士さんが笑顔で駆け寄って来た。

「もう目が醒めていますよ」・・・と言いながら、おふくろの耳元に口を寄せ、大きな声で呼び掛け「高橋さーん、息子さんと娘さんが見えてますよーっ!目を開けて下さーい!!」

・・・と、その声に促されるようにおふくろの目がうっすらと開いた。・・・だが、呼吸器で口が塞がれているため、声も出せないし、口も効けない。ボクは思わず手を握った。「母さんオレだよ。わかるか?わかったら手を握り返してみて・・・・・」と、おふくろは、弱々しいながらもしっかりと握り返してきた。確かに目覚めている。・・・と言うことは、意識もしっかりしているということだろう。

そこに主治医がやって来た。「まだ予断は許さないが、血圧は一応正常値近くに戻っていますし、なによりも予想外に早く目覚めてくれましたので、第一段階は超えたと思われます。」

主治医のその言葉にホッと胸を撫で下ろしたボクだったが、ひとつ引っ掛るものがあった。予想外に早く目覚めたの、「予想外」にだった。「いやあ、なにしろご高齢ですから、なかなか目覚めない場合もあって、そうなるとボケボケの「認知症」になってしまうケースもあるんですよ。」

この一言にはショックだった。仮に健康を取り戻したとしても、それと引き替えに「認知症」に陥ったならば、言語を絶する。・・・だが、いましがたボクの呼び掛けにしっかりと手を握り返してくれたではないか。その手の感触を思い出しながら、この時間帯の面会を終え、祈るような気持ちで病院を辞した。

病院通いはそれから連日のこととなった。もちろんボクもマネージャーも日常の仕事を抱えているので、正午はボクが行き、夜はマネージャーという連係プレーでしのぐこともあった。

入院して三日目の一月二十一日、東京は八年ぶりの大雪に見舞われた。相変らず人工呼吸器で口を塞がれっ放しのおふくろに「雪が降ってるよ。屋根にはもう十センチぐらい積ってる」・・・と囁いたら、声にはならなかったが「ホウ!!」と驚いた表情を見せた。意識は入院前と変らない状態に戻っているようだ。

しかし、それにしてもマンガ家とは因果な商売である。生命の限りを尽くし、ICUの無数な機械や管につながれているおふくろを目の前にしながら、この日は懐にちゃっかりデジカメを忍ばせていたのだ。こんな場面はめったにお目にかかれるものではない。いつか作品の資料となるかも知れない・・・とばかりに取材を申し込んでいた。もちろん「矢口高雄」という身分を明かした上での申し込みだったわけだが・・・・・。

撮影許可は直ちに得られた。なんと、主治医が中学生だった頃「釣りキチ三平」の大ファンで、しかも新婚旅行では秋田に行き、八郎潟でバス釣りをして来たという釣りマニアでもあった。ファンはどこに隠れているかわからないものだ。つくづく、人との出会いの不可思議さを感じた。

待望の人工呼吸器が外されたのは、その二日後の二十四日だった。もしダメだったらもう一夜挿入し直すかも知れないと言っていた主治医も、思いのほかスンナリと外せたことで、順調な回復に手応えを感じた様子だった。

やっと声を出して口がきける様になったおふくろの第一声は「ここはどこだ・・・・・!?」だった。S大病院だと告げたが、何故ここにこうしているのか、状況がつかめていないばかりか、救急車で運ばれたことや、その後の二日間ほどの記憶が全くないと言う。無理もない。一時は死線をさまようほどだったわけだから。

それからのおふくろの回復振りは、すさまじいものだった。自力での呼吸はもちろんのこと、流動食ながら自分で食べ、更に二日後の二十六日は車椅子に乗せられ、院外の駐車場に出てひとしきに日光浴をした。この軽い散歩でおふくろは初めて病院の外観を見て、自分の居場所を客観的に認識することとなったのだが、それでもボクは不安を解消出来ずにいた。

「認知症」の件である。だから、さり気なく聞いてみた。
「今日は何日か知ってる・・・・?」
「一月二十六日だべ」

ホッとした。・・・が、更にボクを驚かせる言葉を、おふくろは苦笑混りにつぶやいた。「どうやらまだお迎えには早かったようだな。まだ、来ちゃあダメだってことだべ・・・・」

この一言でボクの不安は一ぺんに消し飛んだ。「認知症」の二の字もない。そればかりか、その一言にはまだ「生きよう」とする力がみなぎっているではないか。

この時ボクは、大先輩マンガ家だった故・馬場のぼる先生の言葉を思い浮かべていた。馬場先生は晩年ガンに蝕ばまれ、三度の手術を余儀なくされた。そんな馬場先生が、あるパーティの席上でボクにこう言った。「矢口さん、人間病気では死にません。死ぬ時は寿命で死ぬんです・・・!!」

ボクのおふくろはまさにソレだった。敗血症に追い込んだ体内の雑菌の数値もすっかり下り、一月三十日に無事退院となったのだ。まずは、めでたしめでたし・・・である。そしていま、その快気を祝い、併せて「米寿」のお祝いをしてやろうと企画中である。

長いコラムになってしまったが、お読みいただいて有難うございました。
「三ない主義」  更新日時:2006/03/01
数え上げれば他にもっとあるのかもしれないが、とりあえず現在のボクには「三つのない」がある。

① ゴルフをしない。
② ワープロやパソコンをしない。
③ 携帯デンワを持たない。

① 「ゴルフ」は三十年近く前に、誘われて4~5回やったことはある。知り合いの編集者と大学教授に誘われて河川敷のコースに出たことと、何時だったかは忘れたが正月休暇を利用してハワイへ行った折、シンガーソングライターのみなみらんぼう氏に誘われてクラブを握ったことだ。

なかでも、ハワイのコースでの苦い思い出は強烈である。なにしろ練習なんてまったくしてないわけだから、空振りはするわ、土をたたいて掘ってしまうわ、たまにいい当りをしたと思っても、ボールは大きくスライスしてサトウキビ畑に消えて行く。ど素人だから当然の結果と言えるだろうが、生来負けず嫌いのボクだから、頭に来るわ、ムキになるわで、ついぞその楽しみに取り憑かれることはなかった。

「もう二度とゴルフはしない」と誓ったのは、帰国してのことだった。さあ、仕事とばかりに机に向かったのだが、思うようにペンが滑らない。微妙なペンタッチはおろか、ちょっとした曲線さえもままならない。原因はゴルフだと気付いた。ムキになってクラブを振り回したこともあるだろうが、ゴルフというヤツは同じ筋肉を繰り返し繰り返し酷使する。その為に、特に肘の筋肉に負担がかかって、ペンがスムーズに動いてくれないのだ。

そういえばかつての銀行マン時代にも似たような体験があった。昼休みに同僚とキャッチボールをすることが良くあったが、昼休みも終え机に座って伝票を書こうと思っても、ひとしきり手が震えてうまく書けなかった。

そんな思い出も踏まえて、ボクは敢然としてゴルフに決別を宣言した。「マンガ家を続ける以上、ボクにゴルフは必要ない」・・・・と。

② ワープロとパソコンについては、自分の怠惰さ加減を棚に上げるようだが、残念ながらそれを修得しようという時間もないし、その気もない。もちろん、それらの効用は充分知ってはいるが、幸いボクの側近(スタッフ)にはソレの出来人間が多い。

だから、必要な時にはその人たちにやってもらっている。昨今ではホリエモンのように『IT』を駆使して多様な可能性を追求する人もいるが、現在のボクにとってのパソコンは、頭のいい百科辞典のようなもの・・・と言った認識である。そして、そんな認識がいかに時代おくれであるかも知っている。

③ 携帯デンワの有用性も、もちろん知っている。しかし、ついぞこれまで持とうと思ったことはない。・・・と記すと、きっと機械オンチと思われそうだが、思われても結構だ。第一わずらわしい。女性のようにハンドバッグを持つ習慣がないから、どこに忍ばせて歩くかを考えただけでもめんどう臭い。置き忘れた時のことを思うとますます厄介だ。

酒場で飲んでいる時、女房からかかって来たら居場所が知れてしまう・・・なんてケチな考えは持っていない。ヤバイ秘密保持のために二台持っている人の話も聞くが、そんなことを怖れて持たないのでもない。要するにめんどう臭いだけなのだ。

「そんなにめんどうなら、老人用の”簡単じゃないか”を持ったら?」と、娘には何度も言われている。だが、そう言われると意地でも持ちたくはない。それでもボクに携帯を勧めようとする御仁がいたら、この一言を贈呈したい。「そんなものの無かったちょっと前のことを思い出してごらん。何の不自由もなかっただろう」・・・・と

ただ昨今、携帯デンワの普及により公衆デンワがグンと減ってしまった。
これは、不自由ではある。
KPC「釣りキチ三平」創刊号のお知らせ  更新日時:2006/03/30
「独り言」にアクセスの皆さん、久し振りです。今回はコラムと言うよりもお知らせです。

長い間ご愛読いただきました「三平CLASSIC」も終り半年がたちました。
「CLASSIC」発刊中は大変なご支援とご好評をいただきありがとうございました。

そのご好評にお応えして、この四月より月2回刊で「釣りキチ三平」のコンビ二版(KPC)全52巻の予定で創刊のはこびとなりました。



創刊に向けては、昨年より編集部と綿密に打ち合わせ、準備して来ましたが、大きなポイントが2つあります。

① ラインナップは作品の発表順を原則とすること。
② 全52巻の表紙絵をすべてオリジナルで描き下ろすこと。

ラインナップを作品の発表順にしたものを作りたいという思いは、かねてよりのボクの願いでもありました。何故なら「三平くん」は10年という長きにわたって連載されたもので、前半、中盤、後半へと描き継ぐなかで随分絵に変化が生じています。

早い話、拙なかった時代から、必要に迫られて次第に上達し、表現の幅が増していきます。そのプロセスを違和感なく見てもらいたいと思ったからです。

表紙絵を全て描き下ろす件は、これもボクが積極的に買って出ました。中味(内容)は既刊のものと変りありませんから何かひとつKPCならではの特典を打ち出すとすれば、表紙絵をオリジナルで描き下ろすぐらいしかボクには出来ません。しかし、表紙は何と言っても一冊一冊の本の顔ですから、やはり何かひとつ新しい試みをお見せしたいという欲望がわいて来ます。

そのひとつがキャラクターです。従来ならばやはり主人公である三平くんを
ドーンとメインに据えて構成するのが常道であり、無難なところでしょう。・・・が、このシリーズではその常道を打ち破って、他のキャラクターをメインに据えて見たいとも考えています。

つまり、一平じいさんだったり、魚紳だったり、谷地坊主だったり・・・と言ったキャラクターを出来るだけ活用した構成にしてみたいと思っています。もしかしたら、三平くんの姿が全くなく、魚紳さん一人という表紙もあるかもしれません。

とにかく、コンビ二にお弁当を買いに行った折には、本のコーナーをのぞいて見て下さい。お弁当のおつりで新しい「三平くん」に会えるかも知れません。

よろしくお願いします。
緊告!!平成版「釣りキチ三平/VOL . 5/カヒの秘密編」 6月1日発売決定  更新日時:2006/05/17
平成版「釣りキチ三平/VOL 5 /カヒの秘密編」が完成し、6月1日(木)の発売が決定した。



遅くとも昨年末には発刊を予定していた。遅れた理由を弁解するつもりはない。ひとえにボクの怠慢以外の何ものでもない。・・・・が、ひとつだけ本音を言わせてもらえれば、ドラマが「あらぬ方向」に進んでしまったことである。「あらぬ方向」とはどんな方向かは、本編をお読みいただきたい。

「釣りキチ三平」の連載がスタートしたのは昭和48年である。その第一回目に、編集部がこの作品に対して「明朗釣り漫画」なるキャッチコピーを付けてくれた。ボクは、このキャッチコピーを見たとたん、大いに気に入った。たった一言でその作品のねらいどころを見事に言い表わしていたからだ。以来ボクは、常にこのキャッチコピーを念頭に入れながら作品創りに励んできた。明朗で、躍動感溢れる釣りマンガを描こうと・・・・・

加えて「釣りマンガ」だから、常に勇壮な、もしくは繊細な釣りのシーンが展開することが使命であり、この作品の最大のセールスポイントのはずである。
だから、そこに至るプロセスを丹念に築き上げ、一気に爆発させるような釣りのシーン(クライマックス)に持ち込むように工夫をこらし続けて来た。

ところでがある。この度の「カヒの秘密編」には、何とも不思議なことにその「釣りシーン」がワンカットとして登場していないのである。「こりゃあ~、釣りマンガじゃないじゃないか・・・・!!!」という読者の声が聞こえて来そうだ。もちろん、そうしたドラマを創り、構成を採ったのはボクであり、作品に対する賛否は読者の皆さんの判断に委ねるしかないが・・・・が、執筆中に最も心を痛め、苦慮したのはそこである。

しかし、モノは考え様である。これも「三平」というドラマのひとつである。「三平」というドラマの懐の深さと解してお読みいただきたい。それほどに、作者であるボクが「あらぬ方向」にのめり込んだ産物であると解して、お付き合い願いたい。

そして、その「あらぬ方向」もまた「面白かった」の一言がいただけたならば、きっと続編を描くための大きな「力」となることだろう。

皆さんからの待望の声が多かった「9で割れ!!」も、ついに完結にこぎつけることができた。VOL . 5に同時掲載のFILE26「バリバリ氏のトゲ」がそれだ。この作品は1993年~二年半「小説中央」(中央公論社)に連載した作品だった。ところがFILE20まで描き継いだところで発表誌が休刊となり、不運にも未完のままとなっていた。

でも、ボクにはどうしても描き遺して置きたいテーマだったので、発表誌を失ってからもモチベーションを保ちながらコツコツと描き溜めていた。それが図らずも平成版「三平」の発刊にともない、再び連載の場を得て、どうにか今回のFILE26「バリバリ氏のトゲ」をもって完結することとなった。

しかし、なにしろFILE25を描いたのがほぼ十年も前のことであり、十年間のブランクを乗り越えての執筆だったわけで、調子を取り戻すのに一苦労だった・・・が、完成にこぎつけ、振り返って見るとき、一見平凡そうな片田舎の若き銀行マンの体験記が、こんなにもドラマチックだったのかと、自分自身が驚ろいている。

もちろん、エピソード一つひとつには、作品として魅力ある展開を図るための虚構がほどこされているわけだが、それを差し引いても、何とパワフルな時代だったことか、自分でも不思議でならない。その不思議を解くカギがあるとすれば、それは「若さ」という一点に尽きるだろう。若さゆえに、青臭い理論を平然と振りかざし、ひたすら遠い少年の日の夢を追い求め、無謀に突っ走った・・・としか表現のしようがない。最終話「バリバリ氏のトゲ」を執筆しながら、つくづく思った。

VOL . 5の巻末に、特別読み切りとして「銀行マンの夢」(54ページ)が掲載されている。これは、プロマンガ家の同人誌「まんじゃぱ/VOL .2」用に特別に描き下ろした作品である。一般の商業誌には発表できないテーマをやろう・・・というコンセプトで発刊されたもので、発刊部数も少なく、書店で発売される類の本ではなかったので、読者の皆さんの目にはほとんど触れていないだろう。「9で割れ!!」の一連の流れを締めくくる後日談と位置づけてお読みいただければ、それなりの感動が得られるのではないだろうか・・・・

ご期待ください。
「帰郷」  更新日時:2006/05/21
ボクのおふくろが敗血症に見舞われ、1月19日に救急救命センターに運ばれ、死線をさまよったことは、過日このコラムで記した。

八十八歳という高齢だったので、正直言って覚悟をした・・・・が、やはり寿命が尽きていなかったのだろう。どうにか回復し、普段通りの生活が送れそうになったので、本人の希望を汲んで郷里秋田に帰郷させることとなった。



退院後のしばらくは、不安でいっぱいだった。なにしろ八十八歳という高齢に加えて、すり摺り減った股関節を十数年前に人工関節に換えたことから、身体障害者手帳の交付を受ける身になっていて、早い話ヘルパーの介護を必要とする生活だったからだ。

しかし、やはり住めば都とでも言うのだろうか・・・体調が回復するにつれて
しきりに望郷の念を口にするようになった。

例えば、郷里の親しい隣人とはしげく電話連絡を取り合っていた。やれ、軒下の雪が何センチになったとか、桜の開花が何日ぐらいになりそうだとか、裏山の山菜がほころび出した等々の情報を逐一得ていて、それを聞く度に望郷の念がつのって行く様が、手に取る様にわかってほほえましかった。

もちろんボクにも、身体的に不自由なおふくろを帰していいものか、大きな不安があった。長年田舎に暮し、四季の流れにどっぷり身を委ね、土を耕やすことしか経験したことのないおふくろを、大都会の片隅に閉じ込めて置くことが不憫でならなかった。だから、まずはいいタイミングを見計らって帰そうと心に決めた。

そのタイミングが5月3日だった。思い返せば今冬は記録的な豪雪に見舞われた年だった。そのせいもあって、郷里秋田の春は例年より遅れ、5月3日あたりが桜の満開だという情報を得たので、この日の帰郷を決めた。

8時5分発のJAL秋田行きの便がそれだった。あらかじめ予約していた羽田空港のサービスカウンターに立ち寄り、車椅子を借りた。大型連休の真っ只中ということもあって、ロビーは行楽客でごった返していたが、空港職員の親切な誘導を得て、スムーズに機上の人となった。

おふくろが、豪雪を逃れて一冬東京方面に避寒するようになって、もう二十年余りは経つだろうか。もちろん現在より若く、足腰も丈夫だった頃は自分で上京し、自分で帰郷したのだが、身障者となってからは四人の妹たちが代り番こで、新幹線で送り迎えしていた。

そんな妹たちの苦労を考えて、今年の送り番はボクが買って出た。・・・だが、持病の腰痛をかかえるボクには新幹線はちょっとこたえるので、飛行機の利用となった。・・・と言うことは、おふくろにとっては飛行機で帰るのが初めての行程らしく、事の外上機嫌だった。幸い空は雲ひとつない五月晴れで、わずか50分のフライトだったが、おふくろの目はまるで遠足の小学生のように輝き、眼下を流れ行く景色にうっとり見とれていた。



秋田空港に下り立った時には、案の定だった。空港周辺の桜が今を盛りと咲き誇っていて、まるでおふくろの凱戦を称えているかの様だった。空港には、ボクの無二の親友である小西晋吉氏の出迎えがあった。小西氏については、このコラムの別項で紹介させていただくが、ボクの親友であると共に、ボクが不在の秋田では、息子代りとして何かにつけておふくろの面倒を見ていただいている御仁である。

だから、死の渕から帰還したおふくろを見るなり、抱きつかんばかりの出迎えだった。もちろんおふくろも、もう一人の息子と会えた歓びで、頬を紅潮させていた。かくして、おふくろとボクは小西氏の車で一路郷里へと向かった。

我が家に帰る時ほど胸が高鳴るものはない。・・・だが、この度はいつもとは違っていた。言うまでもない、おふくろの健康に対する不安である。懐かしの我が家に帰ってはみたものの、果たして暮らして行けるのだろうか。そんな不安をかかえての帰郷だったので、ボクにしては前例がない五日間の休暇を取った。とにかく五日間おふくろの側に寝起きし、その動行を注意深く見極めようと考えてのことだった。

だが、ボクが帰省すると、どうしても来客がひきを切らない。おふくろにとってはそれもまた楽しいことには違いないのだが、結局おふくろの手を煩らわす結果となってしまう。この度の帰省では、それをも最小限に抑えるよう配慮した。小一時間余りのドライヴで、足掛け五ヶ月振りの懐かしい我が家にたどりついた。末妹夫婦が前夜に陸路で先乗りしていたので、部屋はすっかり片付いていた。

しかし、やっとたどりついたおふくろには、一息付く暇はなかった。死の渕から帰還したおふくろを、今や遅しと待ちわびる近隣の祝福の笑顔が相次いだ。
だが、それはおふくろにとっては、ただにうれしい歓迎であり、生命あったればこそ目見えることの出来た親しき人々の笑顔であった。

「危なぐ死ぬとごだったども、まだ寿命じゃながったみだいで、ハハハハ・・・」

と、言いながら、おふくろは得意げに写真を見せて回った。鼻から両手首にかけて、無数の管にしばられながら『ICUベッド』に横たわる、入院姿の写真だった。この写真はちょっとしたエピソードがある。つまり『ICU(集中治療室)』のベッドに横たわる痛々しいおふくろの姿を見た時、不埒にもボクがとっさに考えたのは・・・・

「ひょっとしたら、こんなシーンを作品に描くことがあるかも知れないゾ・・・・・?」だった。

マンガ家らしい発想と言えば、言えなくもないだろうが・・・・。だが、無断で撮るわけにも行かない。そう考えて、あらかじめデジカメを準備しておき、主治医の回診時を見計らって、理由を話し、お願いしてみた。ところが意外な展開となった。なんと、その主治医がボクの「釣りキチ三平」の大ファンで、リアルタイムで読んでいた釣りキチだったのだ。だから、ただちに撮影OKとなり、資料として、あらゆる角度から撮らせていただいた。おふくろが戦利品のように得意気に見せて回った写真は、そのなかの数枚をプリントアウトしたものだった。

といかく、おふくろが帰ったふるさとは、桜が満開のふるさとだった。いや、北側の軒下や、裏山の沢にはまだ残雪が豪雪の冬を物語る様に横たわってはいたものの、ちょっと目を転ずれば山肌の至るところに、カタクリ、アズマイチゲ、キクザキイチリンソウ、ニリンソウ等々の可憐な草花が、おふくろの帰郷を祝うかの様に咲き揃っていた。またとないタイミングでの帰郷になったと、ボクはホッと安堵の胸を撫で下ろした。

しかし、そうした花に迎えられて帰郷したおふくろではあったが、何よりもおふくろの強い支えになったのは、気のおけない隣人たちとの語らいだった。
使いなれた方言で、心おきなく語るおふくろのリラックスした姿が、何よりもそれを物語っていた。自然は力、ふるさとは力なり・・・・である。

その後おふくろは、ふるさとの力に支えられながら、一人で気丈に我が家の主をやっている。そんな気丈なおふくろに対して、ボクが出来ることは、毎日一回ご機嫌うかがいの電話をすることである。
「心友」小西晋吉氏について  更新日時:2006/06/01
人間が生きて行く上で、必要不可欠なものはいくつかある。なかでも、お互いに深く理解し合い、心を許して話し合える「友」の存在は大きい。そんな友を、ここでは「心友」と呼ぶことにしよう。

例えば、犯罪者がいるとしよう。いや、犯罪者でなくても、何がしかの人生目標を揚げながらもろくも挫折した人でもいい。・・・が、こうした人たちには一脈通ずる特性があるようだ。内向的で、口下手で、友だち付き合いが苦手・・・・という性格だ。つまり、もしこうした人たちに心を許して話し合える「心友」がいたならば、こうはならなかっただろう・・・という例が少なくない。

さて、ボクの「心友」は、・・・・?と、聞かれたら、即座に小西晋吉氏と答える。「心友」と呼ぶには少しおこがましい気もするが、実はボクより三つ年上で、銀行マン時代の先輩で、郷里秋田に在住する御仁である。しかし、二人は何故か気が合って、もう四十年余りも「心友」付き合いをさせていただいている。

小西氏と初めて出合ったのは、忘れもしない昭和三十八年で、ボクは二十三歳だった。転勤を命ぜられて、ボクの勤務する支店に小西氏が着任したことが対面の始まりだった。

始めは、要するに普通の先輩行員であり、同僚の一員であった。・・・が、それが親密な関係に発展するには、何かの印象的なキッカケがあるものだ。忘れもしない昭和三十八年と前途したが、実はこの年故・手塚治虫の「鉄腕アトム」が、初の国産アニメーションとしてテレビ放映が開始された。子どもの頃より手塚治虫なくしては夜も日を明けない「手塚中毒」のボクには、待ちに待ったアニメ化であり、忘れもしない年となった。

ところが・・・である。放映開始はその年の一月だったが、それはキー局(フジテレビ)でのことであり、地方に住むボクの目に触れたのは数ヶ月も遅れてのことで、しかも放映は夕方の5時という時間帯だった。銀行マンにとっての5時は戦場である。3時でシャッターは閉めるものの、それは営業時間の終了であり、それからが大変である。なにしろ銀行マンの仕事は、全て現金にかかわるだけに、まずミスが許されない。もし集計が不突合だったり、現金に過不足が生じようものなら、徹底的にその原因を追究する。そのために延々と残業となったケースは、珍しいことではなかった。

当時ボクの仕事は、定期預金、定期積金と替為係を兼務していた。・・・が、放映日の5時には、ボクの姿は机になかった。わずか三〇分間ではあったが、「アトム」の誘惑に勝てず、敢然と営業室を抜け出し、裏の当直室のテレビに釘付けになっていた。

そんなことを何回か繰り返していたある日、「アトム」も終わって、さあやり残した続きをやろうと席に戻ってみると、ボクの仕事はきれいに片付いていた。片付けてくれた御仁は、その集計表の筆跡から瞬時にわかった。隣席で普通預金を担当していた御仁だった。頭を掻きながら恐縮するボクに、御仁はソロバンの手を休めることもなく、しかしフッと笑みを浮かべた横顔のままで言った。

「アトムの顔しか見えてない人に集計は無理だと思ったから、代わりにやっといたヨ」

それが小西晋吉氏だった。そして、この一言が小西氏とボクの「心友」お交りの始まりだった。

しかし、銀行マンには転勤という宿命がある。つまり、ボクと小西氏とはわずか二年間同じ職場に勤務しただけで転勤となり、その後は顔を合わせる機会もないまま時は過ぎた。もちろん暑中見舞や年賀状のやりとりはあったわけだが・・・・。

そして、昭和四十五年(1970年)六月にボクは十二年二ヶ月勤めた銀行マン生活にピリオドを打つことになる。言うまでもなく、少年の日に描いた夢「マンガ家」の実現のために銀行を退職したのである。・・・が、小西氏は、ボクが銀行を退職したことを知らなかったと言う。幸いなことに、ボクの少年の日の夢は着々と実現していた。若干の曲折はあったが、昭和四十八年(1973年)に発表した「幻の怪蛇バチヘビ」で大きな波に乗り、余勢を駆って「釣りキチ三平」をスタートさせ、この年の十月には「おらが村」(漫画アクション)のシリーズ連載にこぎつけていた。

そんな昭和四十八年十一月のことだった。どんなキッカケだったかは忘れてしまったが、フッと小西氏の顔がよぎって、急に声を聞きたい衝動にかられた。

どのようにして彼の居場所を突き止め、電話番号を調べたのかも、今日では記憶にない。・・・が、とにかく電話した。夜も十時を回った頃だったろうか。

突然の電話に、小西氏は驚きを隠さなかった。無理もない・・・転勤で離ればなれになって以来八年振りだったわけだから。もちろボクが銀行を辞めたということは、その後人伝てに聞いたというが、それがマンガ家に転身し、現在は矢口高雄と名乗っていると告げたとたん、絶句した。

しばらく間があった。・・・そして言った。

「オレ、つい先日出張の車内で漫画アクションを買って読んだばかりだけど、その中の『おらが村』を読んだ時は、何でこの作者はこんなに秋田の農村のことが詳しいんだろうと不思議に思った。それが高雄くんだったとは・・・。』

なつかしい声だった。二人は、それから三十分も話したろうか・・・・電話の終りに、ボクはこう結んだ。

「そんなわけで小西さん、オレ現在は一冊売れてなんぼの生活をしてるんだ。
だから、気持ちとしてね、本が出たら献本したいと思ってはいるんだけど、
オレと小西さんの仲だから、一冊でいいから買って読んでくれるよネ・・・・。」

「わかった。毎週買わせてもらう・・・・・!!」

後年聞いた話だが、「オレと小西さんの仲だから、買って読んでくれるよネ・・・・・・・」というボクの一言に、いたく感動したという。ああ・・・この人は自分をそんな仲だと思ってくれていたんだ・・・と。

かしくて、この夜の電話が、二人の「心友」としての第二ラウンドの開始となった。
「重なった慶事」  更新日時:2006/06/03
そう言えば昨日(6月1日)ボクの次女の誕生日だった。・・・で、娘の希望もあって、自由が丘のステーキハウスMで、ささやかながら誕生祝いをやった。と、まぁこれだけおことだったら、我が家のアットホーム的な話題に過ぎないわけだが、この日には我が家にとってもう一つの意義があった。なんと、36年前の6月1日にボクが銀行を退職し、マンガ家としてスタートを切った記念すべき日だったのだ。しかも慶き事は重なるもので、奇しくもこの日が平成版「釣りキチ三平」Vol.5の発売日でもあった。誌中に掲載された「9で割れ!!」のFILE.26「バリバリ氏のトゲ」を読みながら、当時をしのんでしばししんみりした会食となった。

そう言えば、慶事でもなく、重なったわけでもなかったが、印象深い日があった。ボクの父の死である。父が死んだのは平成7年10月27日で、心不全により突然の氏だった。夜の死だったので航空便もなく、やむなく翌朝の始発便で在京の親類(つまりボクお妻や娘、妹夫婦とその子どもたち)と共に帰郷することになったが、83歳という天寿をまっとうしての父の死だったので、誰の目にも涙はなかった。

ところが、この日(10月28日)は、なんとボクの56回目の誕生日だった。だから、空港でレンタルしたマイクロバスの中では、しばし「ハッピーバーステー」の一大合唱に沸いた。父の葬儀に向かうバスは、ボクの誕生を祝う場となっていたのだ。それだけい、父の命日もボクにとっては忘れることはないだろう。
「三平くんの年齢設定は・・・?」  更新日時:2006/06/10
先日掲示板を見ていたら「三平くんの年齢はいくつに設定されているの・・・?」という質問があった。同じ質問を何度もされたことがあったし、その都度答えて来たので、今更という感じがしないでもないが、今回はこのコラム欄でそのヘンのことを記してみせる。



さんぺいくんの設定年齢はズバリ『十一歳』である。

連載を開始したのは昭和四十八年(1973)である。その開始の打ち合わせで、
少年マガジン編集長から次のような要望をいただいた。

「うち(少年マガジン)の読者の平均年齢は十一歳ですから、主人公(三平くん)の年令もおおむねそのヘンに置いて創っていただきたい」

この要望には、もちろん異論はなかった。・・・だが、十一歳と限定することは避けた。限定すれば、窮屈になり、ドラマに破天荒な飛躍が望めなくなる・・と考えていたので、九才から十五才ぐらいの巾を持たせて進めようと考えた。

そう考えた理由がある。まだ銀行マンだった二十五~六歳の頃、八頁ほどの短編を描いた。「ター坊と三人のギャング」というタイトルだったと記憶するが、銀行強盗に押し入った三人のギャングと、ター坊という幼い少年がかみ合うコメディ的な作品だった。

いい出来栄えだと思った。少年マガジンの新人賞に応募しようと考た。・・・が、応募する前に小学校時代の恩師に見ていただこう・・・と考えた。恩師は、ボクが小学生の頃からのマンガマニアだった事を知っていたし、それが大人になってもまだ続けていることにいささか驚いてもいたが、とにかく快く応じてくれた。

一読みして、特に面白いとかどうとかの感想はなかったが、一つだけ質問された。

『このター坊という少年はいくつぐらい・・・・?』

「はあ、一応三~四才ぐらいのつもりです。」

『だったら、こういうことはありえません。』

「はア・・・・・・・!?」

恩師は彼方を見る様な目で、教え子のボクを諭す様に言った。

『私は長いこと教師という仕事をして来た。しかし、教師になる過程で、児童心理学というものも学んで来た。児童は日に日に身体的にも心理的にも発達して行くものだ。なかでも心理の発達は重要なもので、教師はその発達レベルに合わせて教育をしていかなければならない。そのために児童心理学というものを随分学んだ。その観点から言わせてもらえば、この少年の年令で、こんなことは有り得ません。マンガと言えども、そうした心理学を無視した描き方は、私はあまり感心しません。もし、少年マンガを描こうとするなら、少なくとも児童心理学の何たるかぐらいは学んだほうが良くはないか・・・・?』

・・・だった。うなだれて恩師宅を辞したことは言うまでもない。確かに恩師の言う通りだろう。少年マンガ(当時は児童マンガと呼ばれていた)を描こうとするなら、児童心理学的知識は持ってないより、持っていた方がいいに決まっている。

しかし、この歳で児童心理学を始めて、修めるまでには何年かかるだろう。
いや、仮に児童心理学を修めることが、マンガ家として必要不可欠な近道なのだろうか。もっと言えば、児童心理学を修めたがゆえに、マンガ家への道が狭められたり、閉ざされることはないのだろうか。例えば、その年齢でそんな行動や考えは、心理学上では有り得ない、限定されてしまえば、マンガ的発想が極端に削り取られてしまうのではないか。

反省しきりの帰り途、ボクはいつの間にか恩師の説諭に逆らうごとき理論を組み立てていた。

そんな若き日に組み立てた青臭い理論を思い出しながら「三平くん」を描いた。決して、恩師の言う児童心理学を無視した積りはないが、むしろマンガ的発想をボクは優先させる手法で三平を描き、成長させた。そして、結果的に見ると、十一歳という年齢設定でスタートした「三平」くんも、時にはそれ以下の行動を取ったり、時に応じては六十歳の老境の発想を持つ少年へと育って行った。まさにマンガ的発想のキャラクターと言うべきだろう。だから、マンガは面白いのだ。

ついでに、マンガの作法型式には大別して二つの方法があることを記して置く。

例えば「巨人の星」(原作・梶原一騎/漫画・川崎のぼる)。

これは主人公・星飛雄馬の成長を描いたドラマだから、甲子園大会だと高校生、そしてプロ野球編だと高校を卒業して巨人軍に入団する、というぐあいに成長に伴って年齢も上がって行く。こうしたドラマを『大河型式』という

もうひとつが「子連れ狼」(原作・小池一夫/劇画・小島剛夕)。

柳生一族の陰謀によって妻を殺された公儀介借人・拝一刀が、一子・大五郎を伴なって、一族の首領柳生烈堂と対決すべく刺客道に入る。そして、苦節0年、ついに一刀と烈堂の対決の日がやって来た・・・・というドラマだ。つまり、ドラマの型式から見れば、事件の発端から対決までの年月の隔りを描いているわけだから大河型式と言えるわけだが、苦節0年を経ても父・一刀の懐に抱かれている一子・大五郎は、まだ三つである。対決の背景となる歳月は大きく流れていても、大五郎は常に三歳でなければならないのだ。

誠にマンガ的発想と言うべきだろう。
「マンガについて二題」  更新日時:2006/09/13
<その一>

「最近のマンガは面白くない」・・・という言葉をよく耳にする。しかし、こうした言説は今に始まったことではない。ボクが記憶する限り70年代あたりから幾度となく繰り返されて来た御託である。

これは、あくまでもボクの観察だが、そんな御託をのたまう御仁にはひとつの類型がある。かつては本気でマンガをむさぼり読み、没入して来た人たちだが、歳月とともに成長(もしくは老成)し、いつの頃からマンガとは距離の出来てしまった人たちである。

・・・と言うことは、つまり自分の加齢現象に無自覚ゆえに起こる現象ではないだろうか。従って、現実のマンガの面白さとは無関係な言説と言っていいだろう。

カラオケで演歌しか歌わないオジサンやオバサンたちがたくさんいる。
もし音楽としての好みを発展させたならば、ポップスもニューミュージックも愛唱できるオジサンやオバサンが増えてもいいように思うのだが、相変わらずの演歌で、「最近の歌は覚えにくく、歌いにくい」となげく。

これとよく似ているのではないか。マンガは、いつの時代も、その時代の感性で読めば、絶対面白いのだ。



<その二>

水木しげるの初期の短編に「幸福の甘き香り」という作品がある。時代劇として描かれているので、
今日的に要約してみよう。

一人の誠実な男がいる。少年時代には立派な大人になろう、いい学校に行こうと必死に勉強し、青年になっても殆んど遊ばずに働き、幸福になるために貯金をし、妻を迎え、息子を進学就職させ、やがて老いて死ぬ間際となって悟る。

「自分の生涯はちっとも幸福ではなかった」

対して妻が言う。

「あなたは幸福の準備をなさっただけよ」

臨終の床にある男がしみじみと言い残して息を引き取る。

「そうか・・・準備だけをして味わうことを忘れていたのか・・・・・。」

このドラマ、今日読んでも胸に迫るものを感じる。あまりにも自分の人生とオーバーラップするからである。つまり「幸福」とは、いつの場合も未来に対する予測とか、期待として甘美的なのであって、現在進行形という時の切り口からは意識されにくい・・・というものだろう。逆に、過去にほとんど意識されずに過ぎて来た幸福があったとしよう。ところが現在不幸に見舞われているとしたら、対比的に過去の幸福が鮮やかな価値を持って甦ってくるはずである。

だから人間は貪欲に「幸福」を求め続けるのだろう。
「マンガ家の忘年会」  更新日時:2006/12/27
毎年末、マンガ家が大挙して集う忘年会が二つある。小学館と講談社の主催で行われるもので、今年は12/19(小学館)、12/26(講談社)に帝国ホテルで行われた。

二社とも、少年誌、少女誌、青年コミック誌のすべてを有するマンガ誌の総合出版社だから、その執筆陣が一堂に会するということは、日本中のマンガ家の大半が集結することになるわけで、それはそれは豪華な顔ぶれである。なにしろマンガ家は日常的に多忙だから、こうした機会でもない限り、めったに顔を合わせることがない。つまり、同業者の顔や、その動向を知るうえでもまたとない機会なわけで、ボクはデビュー以来この二大忘年会には一度も欠席をしたことがない。



デビューしたその年(昭和45年)初めてご案内をいただいたのが「小学館」のパーティーだった。・・・が、今日でも忘れることの出来ない興奮の連続だった。なにしろ、普段は作品でしかお目にかかれない著名な人気マンガ家たちが、ゴロゴロと会場内にひしめき合っているではないか。

石ノ森章太郎、ちばてつや、さいとう・たかを、藤子不二雄、赤塚不二夫、
松本零士、水島新司、里中満智子、etc・・・。

そして、それら一人ひとりの顔がたちまち彼等が生み出したキャラクターとオーバーラップして、とても料理など食べているヒマがないほどの興奮の連続だった。

宴もたけなわとなった頃、会場の入口付近が妙にざわめいて、そこだけスポットライトが当たっているかのような光彩を放った。人混みをかき分け近寄ってみると、あこがれのマンガの神様「手塚治虫」の登場だった。

『いやあ、このホテルでカンヅメになってたんだ。まだ年内に二本残ってるんだけど、ちょうど一区切りついたんでパーティーをのぞいてみようと思って下りて来たんだ・・・・・・』

ちょっと鼻にかかった声でニコやかに談笑する神様の体からは、百万ルックスもあろう「オーラ」が発せられていて、まぶしかった。

当然のことながら手塚先生には、デビューして間もないボクのことなど知るはずもなく、次々と取り囲む人垣の中へと吸い込まれて行く。だが、ボクはそんな手塚先生の後に、まるで「金魚のフン」のように付きまとった。子どもの頃よりあこがれた神様の発する一言一句さえも聞き逃すまいと、耳をダンボにしながら追随した。

もちろんボクのこうした行動は、手塚先生ばかりではなく、前述の人気マンガ家にも向けられたことは言うまでもない。この人たちに早く自分の名前を覚えていただき、仲間の一端に加えていただきたい一心だった。幸いなことに、ボクのそんな努力が実ったのか、いつの間にか加えていただき、今年で36年という歳月が流れた。

つまり、マンガ家の忘年会とは、同業者に自分の名前を知っていただく大きな舞台と言えそうだ。もちろん名前を知っていただくということは、その仕事(作品)が評価されたということでもあるし、仕事が評価されたということは、とりもなおさず仲間として認められた・・・ということでもある。

ところが、ここ十年程前より忘年会の様装がすっかり様変りしてしまった感がある。ストレートに言えば、若手や新人マンガ家がベテラン作家の周囲に寄りつかなくなった。ボクらの頃は、もちろん自分の存在をアピールする目的もあったわけだが、とにかく一言でもベテランたちの言葉を引き出し、何かを学び取りたい一心で近寄ったものだが、それがほとんど無い。だから、マンガ界そのものは相変わらず活況を呈してはいるが、誰がどんな作品を描いているのか、さっぱりわからない。つまり、作家とキャラクターが結びつかない時代になってしまった感があるのだ。

十年程前よりと記したが、おそらくその兆しは三十年程前にあったような気がする。ある時期出版社が、マンガ家の専属制を敷いたことに始まった・・・と言っても過言ではない。

かつてもマンガ家(手塚先生を筆頭とする前述の人気マンガ家たちの時代)はフリーだった。誰がどこの出版社に寄稿しても自由だった。だから、同じマンガ家が出版社の異なる何誌にも連載することが珍しくなかった。しかし、売れっ子マンガ家にはどうしても原稿依頼が集中する。集中すれば当然出版社間の原稿争奪戦が始まり、締切りに間に合わないケースも続出する。そうなれば出版物の定期刊行に支障をきす。

そこで考えられたのが「ジャンプ方式」と呼ばれるものだった。後発の「少年ジャンプ」が考案したもので、マンガ家を自社の専属にし、専属マンガ家以外の作品は掲載しない・・・という方式だった。もちろん専属に当っては専属料を支払うわけだが、これならば原稿の争奪戦も、締切りの遅れによる編集の支障も解消される。

もちろん、この方式に踏み切るのには、大きな決断を必要としたことだろう。
なにしろフリーだった時代の売れっ子マンガ家たちが、そうやすやすと専属を承諾するとは考えにくく、仕方なく当初は無名の新人の育成に力を注がなければならなかったに違いない。今だから話せるが、実はボクにもその誘いがあった。・・・が、ボクは丁重にお断りした。自分の描きたいテーマを、誰に気がねすることなく、自由に描きたいと思ったからだ。

ところが、やがてこの方式が大成功を収めることになる。その後の「少年ジャンプ」の隆盛をみれば、一目瞭然であろう。かくして、それから程なくこの方式は他社へも波及して、今日では大半の人気マンガ家が、その誌の専属と言っても過言ではない。

この専属制が近年の忘年会の様装を一変させたとボクは思っている。ここでは言及を差し控えるが、『専属という契約』に、マンガ家としての横の連携を阻む何かがあるのだろうか。



かくして、今年の忘年会で”ゴルゴ13氏”は言う。

『近頃の若手は、顔も名前もさっぱりわからん・・・』



それに対し隣りの”あぶさん氏”も

『誰がどんな作品を描いているのか、全然見えてこないんだヨ・・・・』

そんなことをつぶやきながら、会場の片隅のシニア席を陣取っていた。かく言うボクも、そのテーブルの一員ではあったが・・・・・・。