矢口高雄の独り言 2008

「ゴルフをしない理由」  更新日時:2008/01/01
明けましておめでとうございます。

新年第一弾目のコラムとして「ゴルフ」のことを書くことにする。昨年末もそうだったが、行きつけの寿司屋に行くと決って常連客がいて、話題はこれも決って「ゴルフ談義」である。寿司屋の大将がゴルフ好きということもあり、休日(寿司屋の定休日)にはお客さんと連れ立ってゴルフに行く機会も多く、つまり必然的にゴルフ好きな御仁が常連客となって集まるという図式である。

そんな常連客のなかにボクもいるのだが、ただ一人ボクだけはゴルフをしない。当然常連客からは「何故しないの・・・・?」、とその理由を聞かれたこともあるが、此の頃はまったくそんな質問は出なくなった。「なるほど」と思える理由を、かつてボクは何度かしてきたわけで、納得してくれたのだろう。

その理由とは、もう30年近くも前のことだった。正月休みを家族や友人とハワイで過ごしたときのことだが、その友人が超ゴルフ狂だった。で、ハワイで過ごす間中ゴルフ場に誘われるハメとなった。いや、それはそれで楽しいひとときだった。なにしろ南国の空の下である。加えてゴルフ初体験のボクだったので、つい夢中になってしまった。

しかし、初体験である。止っているボールを打つぐらいチョロいものだと思ったボクが浅はかだった。空振りはするわ、土を掘るわ、たまにいい当りをしてもボールは思わぬ方向にスライスするわで悪戦苦闘。そして、その度に生来の負けん気が噴き出して、無残な結果を招くこととなった。

無残な結果とは、帰国して「さあ仕事」となった時、全くペンを握ることの出来ない身体になっていたのだ。原因ははっきりしていた。クラブを握り度に、肘の筋肉を繰り返し繰り返し酷使したため、ペン先の微妙なタッチが全く狂ってしまっていたのだ。

そういえば、かつても似た経験があった。銀行マン時代だが、昼休みに仲間とキャッチボールをしただけで、午後の仕事に支障を来した。ペンを持つ右手が震え、伝票の起票も、ソロバンもうまく置けなかったのだ。

ハワイから帰ったボクが、やっと調子を取り戻すのに一週間はかかったろうか。死ぬ苦しみだった。その死ぬ苦しみから導き出した結論は「マンガ家を続ける以上、ボクにゴルフは必要ない」だった。もちろん、同業者(マンガ家)のなかにはフルラウンドプレーしても平気な御仁はたくさんいる。でも、ボクは体質的にダメなのだろう。肘の筋肉を急激に、繰り返し繰り返し使う運動にはむいていないのだろう。

これが、ボクがゴルフをしない理由である。以上・・・・
「ポチ袋」と「やせんま」  更新日時:08/01/04
年末のテレビ番組はもっぱら「K-1」を中心に、CMの間に「紅白」を垣間見るといった塩梅に過ごした。そして、それも終っていよいよ新年となり、ほど良くアルコールも回った就寝前に観たのが「雑学王」。

その何門目かに出題されたのが「ポチ袋」だった。

「ポチ袋」とは、子どもや孫などにお年玉を上げる時に使用する小さな「のし袋」のことだが、それを何故「ポチ袋」と呼ぶ様になったのか・・・が問題だった。

答えは「これっぽっち」の「ぽち」が語源だと言う。小さい点を「ぽち」という習慣もあるし、「ひとりぼっち」も「やせっぽち」も類語で、「小さい」とか「少ない」とか「不足」という意味に用いられる接尾語である。つまり「中身がわずかで、気持ちばかりのものですが・・・・。」とへり下ったことに発していると言うのだ。

しかし、秋田の農村に生まれ育ったボクには「ポチ袋」は初めて聞く言葉だったので、ちなみにと思い「広辞苑」を引いてみた。案の定だった京阪方言とあった。

で、秋田ではお年玉を「やせんま」と呼ぶ。漢字に宛てて「痩せ馬」。おそらくその昔、農耕に牛馬が使役させるようになった時代に出来た言葉だろう。農耕用の牛馬が痩せていてはたいして役に立たない。そこから発して「たいしてお役に立つ程の中身ではございませんが・・・・・」と、ヘリ下ったのである。

「ポチ袋」と「やせんま」は、言葉としてはかなりのへだたりはあるが、気持ちの表現としては全く一致していて面白い。
「虚弱な体質」  更新日時:08/02/12
強烈な殺虫剤が混入した中国製の冷凍餃子が、連日大問題となっている昨今である。それに対し、中国人の一部からの反論だったようだが・・・・「日本人は体質的に虚弱なのでは・・・・」というコメントが報じられた。

聞いたとたん「よく言うよ」と思った。自国の民度や、貧困さや、衛生観念の貧弱さを棚に上げて、まあまあ良く言ってくれるじゃないかと思ったが、とっさにボクの脳裏には「まてよ」の言葉が浮かんだ。

「まてよ」・・・と前言をひるがえすがごとき間合いを取ったのは、「日本人は体質的に虚弱なのでは」という指摘が、そんなに的外れではない気がしたからだ。

例えばアルコールを例に採ろう。正確なパーセンテージの程は忘れたが、たしか日本人には他民族に比してかなり高いパーセンテージで酒を受けつけない体質の人が多い。いわゆる下戸というヤツだ。ちょっと飲んだだけで顔が真赤になる御仁から、一滴も受け付けない御仁までまで身の回りには指折り数えただけでもかなりいる。そこへ行くと、ロシア人は総じて強い。もちろん下戸はいるだろうが、少なくともアルコールに関しては、日本人にはとても太刀打ちが出来ない強い体質を持っていることはたしかだ。

かつて(江戸から明治、大正、昭和の初期にかけて)結核は不治の病とされ、多くの人がそれで死亡した。もちろん、そこには当時の人々の食習慣や衛生観念の問題もあったろうし、医学的にもそれの克服にに至らなかった時代背景もあるだろう。しかし、ボクにはこの国民病とも呼ばれた結核は、それに対する日本人の体質が虚弱だったことに一因があったのではないだろうか・・・と考えている。

行きつけの寿司屋の飲み友達に大学病院の医師(準教授)がいる。で、ついこないだ、たまた前述の「日本人の体質」が話題となり、その医師から耳よりなことを聞いた。つまり、医師が言うには「近頃の子どもや若者達は、病気になればすぐに抗生物質を投与してたたいてしまう。結果、病気は治るが、免疫力が低下し、本来あるべき自然治癒力が希薄になっている。・・・と指摘する学者もいる」、とのこと。耳を傾けるべき情報として聞いた。

とにかく、殺虫剤や農薬に強いか弱いかを体質で論ずるのは論外の話と言わざるを得ない。しかし、科学や医学等の文明の進歩は、人類にとっての実に便利で、大きな幸福をもたらすことには違いないが、同時に便利さや幸福の代償として、私たちは「虚弱な体質」を得ていることも事実かも知れない。
「妙ないとおしさ」  更新日時:08/02/21
一昨日(2/18)の夜のことだ。仕事帰りにタクシーをひろい、自宅前で料金を支払って降りたまでは良かったが、うっかりタクシーの中に財布を忘れてしまった。

忘れたことに気付いたのは家に入ってすぐのことだったが、時はすでに遅く、タクシーは後部座席にボクの財布を乗せたまま走り去っていた。しかも、何とも具合の悪いことにこの夜に限って、レシートをもらわずに降りてしまったから、さあ大変。

とりつく島のない状態にガクゼンとしたボクだったが、必死に記憶をたどった結果、黒塗りのボディーの個人タクシーだったことに気付いた。採るべき道はただ一つ、まずは近くの交番に遺失物届けを出す一方、タクシー協会なるところにデンワすることだった。

そのデンワで、ボクは初めて個人タクシー業界の一端を知ることとなる。それまでボクは個人タクシーとは、それぞれの個人が事業主となって、てんでんバラバラに営業しているものとばかり思っていた。
が、どっこいそうではなかった。つまり、個人タクシーには、屋根の表示灯にカタツムリを型取った「でんでん虫」と、提灯マークの「ちょうちん」の二列系しかなく、個人タクシーはそのいずれかの系列に属しているとのこと。

わずかながら明るいきざしが見えて来た。「でんでん虫」の車体は白地に青い横線が入っているというが、「ちょうちん」は黒地だという。つまり、ボクの乗ったタクシーは、その記憶の色からして「ちょうちん」だったこといなる。

そんなわけで、さっそく「ちょうちん」協会にデンワをし、全車に無線で連絡していただいたが、現時点ではドライバーからそのような遺失物の連絡は入っていないとのこと。
もちろん、発見されたら直ちに連絡をくれるということになった。これで、ボクは頭で考えられる手立ては全て尽くした。あとは、運を天に任せる以外にない。

財布の中身はこの際差し控えるが、現金以外には数枚の名刺のほかに健康保険証と、スポーツジムの会員証、クリニックの診察券、JRのスイカ等々で、クレジットカードの類は一切ない。
あるはずもない。ボクはこれまでにその類のカードを一度として所持したこともないし、当然使ったこともないからだ。が、とにかくこれだけの中味がそろっていれば、持ち主が誰かははっきりしているわけで、善意の方に拾っていただくことを祈るばかりだった。

まんじりともしない一夜が過ぎた。日課となっているプールでの水中ウォークの時間が来てジムに出かけた。
しかし、提示する会員証がない。カウンターで仔細を話し、近々再発行してもらうよう申し出たが、戻ることも考慮し、少し様子を見ようということになって、この日は顔パスで入れてもらった。

プールから帰って、まず家族に聞いたのは「警察かタクシー会社から電話がなかったか」だった。
一度もベルは鳴らなかったと言う。うなだれる以外になかった。
朝昼兼用の食事も終え書斎についた。だが仕事などに手の付く状態ではなく、思考は悪い方向へと流れて行く。
この時間にまで発見の連絡がないということは、悪意の人の手に渡ってしまった可能性も否定出来ない。
現金のみを抜き取り、財布は橋の上から川へポイ・・・・等々の妄想が妄想を呼ぶ。
心境は既にあきらめ状態に入っていた。しかし、誰をうらむ気にもなれない。原因は一にかかってボクの不注意以外の何ものでもなかったわけで・・・・・。

玄関のチャイムが鳴ったのは、午後二時頃だったろうか。出てみると
「もしや、昨夜タクシーの中に財布をお忘れになりませんでしたか・・・・?」
という男性の訪問だった。地獄で仏を見たとは、こんな時に使う言葉だろう。急いでドアを開けると、まさにその仏様のような柔和な顔立ちの男性が立っていた。

四十代そこそこの細身で長身の男性だったが
「怪しい者ではありません」

と言いながら、自分の名刺を添えて差し出したのは、まさしくボクの財布だった。名刺の名前は、ここでは差し控えるが、ボクの家からそう遠くないところで総合広告代理店を営む男性だった。手短に語る「財布のいきさつ」は、こうだった。

「昨夜妻と二人でタクシーをひろったんです。多聞あなたが降りた直後だったのでしょう。
妻と並んで座ると、座席に財布があったんです。車内は暗かったし、私はそれを妻が落とした妻の財布だと思い、ろくに確かめもせずそっと妻のバッグに入れました。でも、今朝になって妻がそれを見つけ”どうして私のバッグにこんなものが入っているの・・・・・?”と言うことになり、失礼ながら二人で中を改めさせていただきましたところ、こちら様のものとわかり、お届けに上った次第で・・・・・」

というわけで、財布は無事ボクの手に戻ったのである。まさに地獄で仏を見た一瞬だった。男性は手短にそう語ると、「何かお礼を・・・・」と恐縮する僕の言葉をさえぎる様に手を振って、足速やに去った。が、その後ろ姿には後光が射して見えた。

なるほど。男性の奥様のバッグの中で一夜を過ごしたわけだから、警察からもタクシー会社からも、何の連絡がなかったことはうなづける。しかし、わが手に戻った財布を改めて見つめ直した時、かなり使い古した財布ではあったが、えも言われぬ愛着心がふつふつと沸いて来た。善意のご夫婦に拾われ、その奥様のバッグの中で一夜眠って来たのかと思ったとき、妙ないとおしさが込み上げて来た。

こんな不注意は、もう二度とすまい。そして、タクシーを降りる際には必ずレシートをもらうことにしよう。
「描き心地」  更新日時:08/03/15
マンガ家は自分の画質に合わせてペンを選ぶ。いや、様々なペンの描き心地を試しながら、次第に自分の画質を固定させて行く。

ボクもそうして来た。様々なメーカーのペン先を試しながら、「これだ!!」というペン先に当ったのは三十三年程前だったろうか。メーカーは「タチカワ」の硬質クロームNO3だった。これ以降は、これ一本で自分の画質を極めようと100グロス(1グロス=144本)を纏め買いした。そのぐらい、あれば一生使えるだろう・・・・と考えたからだった。

これは原稿用紙にも言える。マンガ家になりたての頃はお金もないし、描き心地の良い原稿用紙をチビリチビリと買い足してしのいだ。しかし、ある時いくら捜しても以前の描き心地の原稿用紙が手に入らないという事態になった。

あわてて、東京の紙屋という紙屋を捜し歩いてやっと見つけた。今度はヘマを踏むまい。ボクは敢然とそれをロールで買い、自分専用の原稿用紙を作った。年間の使用枚数は自分の制作ペースからしておおむね推測出来る。それに今度続けるであろうマンガ家人生を乗じて、一生描いても大丈夫という枚数の原稿用紙を作った。使い切るか切らないかは、今後の自分次第である。
つまり、自分の今後に対する気慨というわけである。

さて、「タチカワ」の100グロスである。今日となっては、これを購入した時の気慨に計算違いがあったと言わざるを得ない。先月(二月)の半ば頃とうとう使い切ってしまった。だが、別にあわてることはない。「タチカワ」のメーカーは健在だし、早速10グロス程緊急に購入して使い始めた。

が、ちょっと違う。以前の「タチカワ」とはまるで描き心地が違う。ペン先が柔らかく、それまでの積りの筆圧を加えると、たちまち太いタッチとなり、画質が別人が描いたごときになってしまった。これは、困った。マンガ家のペンタッチが一瞬にして変わってしまっては、読者も大いに戸惑うことだろう。

どうして変わってしまったのだろう。長い歴史を誇るメーカーの、それもペン先の命と言うべき硬軟度合いが変わってしまうとは。不審に思ったボクは、まずメーカーにデンワした。メーカー側の回答は以下のようなものだった。

「実は十年程前に金型を変えました。理由は製作コストの削減です。それまでは八工程かけていたものが四工程で済む、というシステムにしました。ところが、それによって出来上がった新製品が若干軟らかくなったようで、お客様(ボクのこと)以外のユーザーの方からも同じようなご指摘をいただいています」

さあ、困った。

コスト削減のため金型を変えた。それはいい。だが、そのためにペン先の調子が変わってしまった。こんなことがあっていいのだろうか。金型を変えたとしても、ペン先の調子を維持するのがメーカーの採るべき道ではないだろうか。しかし、そうなってしまったら一ユーザーとしてのボクの採るべき道は、その軟らかいペン先に加える筆圧を自分で調節し、慣れていくしかないということになる。しかし、果たしてそんなことが出来るだろうか。三十数年という歳月をかけ、指に、身体に覚え込ませた描き心地を、一朝一夕にして変えることなど、もしかしたら不可能かも知れない。

釈然としないボクの脳裏いひとつの打開策が浮かんだ。

「もしかして御社の倉庫に、三十年前のペン先が何グロスかストックされていませんか。もしあるようでしたら、それをボクに譲ってって下さい!!」

「残念ですが本社の倉庫には一グロスも残っていません。でも、大阪に支社がありますので、そちらに問い合わせて、後程ご連絡させていただきます」

営業部長を名乗るデンワの相手は、実に低姿勢であり、親切な応対だった。もちろんこの時点では、デンワのやり取りのなかでボクは自分の身分(マンガ家矢口高雄であること)を明かしていたし、マンガ家という特殊な仕事にとってのペン先の重要性を充分伝える話し合いになっていた。

そんなこともあって、返事はわずか三十分後にはあった。大阪支社の倉庫を調べてもらったところ四十年前の製品がたった一グロスだけ奇跡的に見つかったので、センセイにお使いいただこうと、早速宅配便で送る手続きを取った・・・というのである。

宅配便は二日後には届いた。開けて見ると、纏め買いした100グロスのものより古いタイプで、値段も340円という年代物だった。興奮で震える手で封を切り、一本を取り出し、何はさて置き試し描きをしてみた。「これだ!!」。

100グロス以前のタイプではあったが、その描き心地は、三十数年ボクの身体に馴染んだ「タチカワ」そのものだった。大げさな表現を用いれば、この地上より永遠に失われたと落胆していた描き心地が、たった一グロスとは言え、奇跡的に我が手に舞い込んだと思ったとき、そのペン先は黄金色に輝いて見えた。

とるものもとりあえず礼状をしたためた。この度のご好意とご配慮に深く感謝を申し上げる・・・と。そして、もし今後以前の「タチカワ」の描き心地を再現したペン先(仮いそれを「タチカワ・クラシック」と呼ぶとして)を開発する計画があったら、ボクは協力を惜しまない。三十有余年、ボクの身体に馴染んだ「タチカワ」の描き心地の再現に役立たせて欲しい・・・・と。
「新市「横手市」のイメージポスターが切手に」」  更新日時:08/03/17
ボクの郷里は秋田県。増田町である。しかし三年前の大型合併により、一市六町二村が合併して現在は「横手市」となっている。だから、大雑把に出身地を言えば横手市ということになる。

その「横手市」の観光物産課より、JRの駅貼り用として「新市のイメージポスター」の依頼があったのは、一昨年(2006)の春だった。郷里が新市の一員として発足するという歴史的な意義も考慮して、ボクはこれを承諾した。

作成期間はほぼ半年をいただいた。そして、まず春と夏のヴァージョンを2点描き上げ、それを駅の掲示板に掲げている間に、秋冬のヴァージョンを制作した。

作画は、もっぱらボクのイメージのなかの「横手市」を描いた。新市の人たちのなかには一種の地域エゴも加わったのか、若干の不満もあったようだが、おおむね好評で、なかでも冬ヴァージョンの「かまくら」を描いた作品は大好評だった。なにしろ横手市の名物「かまくら」は、日本中に知れわたる有名な催事だから、当然と言えば当然のことかも知れない。

ところが、この4枚のイメージポスターが、郵政公社の切手デザイナーの目にとまり、今年五月下旬に「新切手」として全国で一斉発売されることが決った。新市横手市も、きっと大喜びしているだろう。どんな切手いなるのか、ボクも楽しみである。

 

 

「娘のクイズ」」  更新日時:08/04/01
このコラム「矢口高雄の独り言」にアクセスして下さっている皆さん、いつもホントにありがとう御座います。

このコラムを構成し、皆様にお届けしているのは私の娘・由美である。判読不明なボクの走り書きの原稿を、毎度苦心しながらキーを打ち込んでいるのだが、その構成力のセンスには娘ながら感心している。

そんな娘が今朝(3/31)、クイズめいたことを話しかけて来た。

「明日は何の日か・・・・・・?」

「さあ、家族の誕生日でもないし、4月1日だから、” 四月バカ “ぐらいしか思いつかないけど・・・」

と言ったら、正解はコラムを開始して今日が満五年から六年目に突入するのだと言う。そんなことなど気にもとめていなかったボクなので、感想としては「光陰矢の如し」だった。

とは言え、思い返せば随分色々なことを書いて来たことが思い出される。多くは思い出の記述だったが、なかには旅行記や、折りに触れた時事ネタを熱く語った回もあった。しかし、こうしたコラムは依頼がないとなかなか書けない。
書かないと、ちょっと日が過つと忘れてしまうことも多いし、第一書かないでいると文章が錆びついて、スムーズに書けなくなってしまう。そんな時に娘から催促され、仕方なく場をつないで来た部分もなくはない。

でも、おかげ様で2003年4月1日に開始以来満五年という歳月を書き続けて来たと言うことは、私的なことだがそれなりに意義があったと感謝している。

余談だが本年(2008)は「少年マガジン」と「少年サンデー」が出版社の枠を飛び越えて、共同編集の「隔週誌」を発行するというし、多くのイベントや記念出版も企画されているようだ。

そんな50周年記念企画のなかに、この夏頃ボクのエッセイ集が出版、9月頃発売されることになっている。タイトルは「平成版/釣りキチ三平の釣れづれの記」(講談社)。このエッセイは1997~2003年にかけて「漫画新聞」(日本漫画学院)に発表したものだが、それをベースに数編の書き下ろしも加えることになった。が、書き下ろしには事欠かない。なにしろボクには本コラムで書きためた数百枚にも及ぶ一文がある。つまり、その書き下ろしエッセイのなかに、本コラムで書いた一文が5~6本掲載されることになった。どのコラムが掲載されるか楽しみにしてほしい。

それにしても、五周年を迎えてつくづく思った。書くべき時に書いておく。妨わしいことだが、これは大切なことである。と言うことは、毎度ボクの尻をたたき原稿を「催促」する娘にも大いに感謝しなければなるまい。
「幻画展に寄せて」」  更新日時:08/05/06
五月四日(日)、郷里横手市・増田まんが美術館でサイン会を行って来た。
今回は同館の春の企画展に伴なうサイン会だったが、企画展のタイトルは
「矢口高雄幻画展」(4/26~5/25)だった。

近年の少年漫画週刊誌には、読者になるべく本編のドラマを多く読ませようとする編集方針なのだろうが、扉絵がなく、いきなりドラマが展開する方式が目立つようになっている。かつて(ボクの頃)はそうではなかった。週刊誌連載の冒頭一ページ目には必ず扉絵があって、そこにタイトルと作者名が記されていた。

扉絵とは、言うなればその連載作品の顔であり、看板である。そして、看板であると言うことは、それを一目見ただけで本編を読みたくなることが重要な使命である。だから作者は扉絵には特段の力を傾注した。例えば、その週のヤマ場(クライマックス)を暗示した迫力シーンだったり、主人公の魅力を際立たせたカッコいい決めポーズだったり、あるいは時に応じては思いっきりデザイン的に凝ったイメージシーンだったりと、考え得る限りの構成にこだわったものである。

ところが、こうして連載された作品が単行本化されると、その扉絵がはじき出されてしまう。決して無駄なページではないはずだが、それが無くても読めるわけだし、あるとドラマの流れがかえって疎外されるという理由からだった。

普通連載作品は一周20ページがスタンダードなペースである。そして、単行本一冊当りのページ数はおよそ200ページ前後が基本だから、十週の連載で一冊の単行本が出来上がる。つまり、一冊単行化される度に十枚程度の扉絵がはじき出されてしまう。作者が特段の力を注ぎ、様々に斬新な試みをしたページだったにもかかわらず、リアルタイムで購読した読者以外には、その後一度として
人目に触れることないページになってしまうのが、扉絵の運命だった。

この度の企画展は、その扉絵にスポットを当てた企画だった。一度の連載で披露された以降は、誰の目にも触れることのなくなった原画だから、まさに「矢口高雄幻画展」である。

この企画は、ボクのマネージャーの提案で実現したのだが、「これぞ企画」とボクは膝をたたいて了承した。企画展は、ただ漫然と絵を飾ればいいというものではない。何か特異な切り口がなければ、観る人の心を引き付けないものだと、つくづく思った。まだ残りの期間があるので、時間のある方はのぞいて見て欲しい。
「ヴァージン・ロード」  更新日時:08/05/21
娘・かおるが5月18日(日)に結婚した。

とてもいい結婚式だった。飾り立てたり、背伸びすることなく、身の丈に見合った結婚式だったし、何よりも花嫁のこぼれんばかりの笑顔が実に初々しく、祝福にかけつけてくれた人達の心に一服の清涼剤のごときさわやかさをもたらしたことが印象的だった。



この日ボクは、自分の生涯において初めての花嫁の父を演じた。式場は、ホテル内に設けられたチャペルだったので、つまりタンタカターンの演奏に合わせて、花嫁をエスコートしながらヴァージン・ロードを歩く・・・という役目を演じたのだ。



本番前に一回だけ簡単なリハーサルが行われた。右足から踏み出して、次が左、そして右といった歩調の取り方を指導された。しかし、緊張のせいかこれがなかなか思い通りに行かない。花嫁の長いドレスの裾が邪魔になり思わず踏ん付けそうになって歩調が乱れてしまう。

だが、本場では実にスムーズに行った。リハーサル中に、あるコツを発見したからだ。そのコツを披露しよう。

左右の歩調を合わせようとするから緊張もするし、一歩乱れればそれを調整しようとあせるあまりガタガタに崩れてしまう。花嫁の歩調なんか一切無視してかかることだ。どうせ長いドレスをまとった花嫁の足など、右を踏み出したのか左を踏み出したのかは、誰にもわかりはしない。これが盲点であり、ヴァージン・ロードを歩くコツというわけだ。

そのことに気がついたら、緊張感もすっかり解け、自分のペースで軽やかに歩む結果となった。

 

それにしても、この日の花嫁(つまりボクの娘)は、これまでで一番可愛く、
美しく、きれいで、その笑顔は幸福そのものに一番輝いていた。
ひたすら幸福を祈るばかりだが、正直な感想としては「ホッ」とした。
「長い長い道草」  更新日時:08/08/26
長編のドラマを描いているとき、ふと、そのドラマの本筋からちょっとそれた「脇道」が面白いと感ずることがある。

本筋を追って行けば、それが無くしてもドラマは成立するのだが、それではストレート過ぎて、遊び心やゆとりが感じられない。何か味付けが欲しくなる。

そこでちょっと脇道にそれて、ドラマに曲折を注入してやると、思わぬリアリティが生じて来るケースがままある。本筋からそれて脇道に入るわけだから、ちょっとした「道草」のようなものだ。



「平成版/釣りキチ三平」の「カムチャツカ編」における「高田屋嘉兵衛ものがたり」は、その「道草」の典型のつもりだった。だが、踏み込んでみたらこれが予想外に奥が深くて、なかなか抜け出せない。

一時は大失敗をしてしまったか・・・と悔やんだこともあった。・・・が、ここまでのめり込んだら最後まで描き通す以外にない。ほんのちょっとした出来心で踏み込んだ「道草」があまりに長く、これほど苦しんだことはかつてなかった。

その「高田屋嘉兵衛ものがたり」もどうにか脱稿した。

我ながらの粘り腰だと、自分で感心している。出来栄えの程は、当然読者の皆様の判定を待つ以外にないが、これでどうにか「平成版/釣りキチ三平」のVOL,7をお届けする日が目前に迫った。



発売日は10月10日(金)と決定した。乞ご期待!!
「ご苦労さん」  更新日時:08/09/05
作家(マンガ家)が大成するかしないかは、まだ感性の固まっていない初期の頃に、いい編集者と巡り合うか否かにかかっている、と言った御仁がいる。けだし名言である。

ボクが大成したかどうかはこの際さて置くとしても、ボクにとって生涯二人と得難い「いい編集者」として、吉留博之氏の名前を挙げたい。

吉留氏は、当時(昭和47年)「漫画アクション」(双葉者)に入社したばかり若き編集者だったが、ボクとの出会いはあるハプニングによる奇妙なものだった。

その頃ボクは「アクション」に月一回程度のローテーションで「釣りバカたち」をシリーズ連載していた。少年誌に二連敗を喫し、オリジナル一本に絞って、のるかそるかの勝負に出ていた。

七月の暑い盛りの頃だった。月一回のローテーションのはずだったが、この月に限って原稿依頼がなかった。不思議に思ったが、催促のデンワを入れる勇気もなく、うつうつたつ日を過ごしていたところ、やっとデンワが入った。しかし、そのデンワは

「そろそろ締切り日も迫っているが、原稿は出来上がっていか・・・・・・・?」だった。

「えっ・・・・・・!?」

原稿依頼を忘れた副編集長のミスだった。ボクに落度がなかったので、締め切り日をギリギリまで延ばしてもらい、二日間の貫徹の末どうにか間に合わせた。・・・が、疲労は頂点に達して、原稿のアップと同時に、二人のスタッフと共にその場に倒れる様に眠り込んでしまった。

何時間眠ったことだろう。ふと、枕元の机の上で紙をめくる気配を感じで薄目を明けたのだが、見慣れない若者がボクの机に座り、いましがたアップしたばかりの原稿に目を通していたのだ。

若者は、口を真一文字に結んだままボクの方に向き直ってニッと笑んだ。お疲れのところを起こしてしまったことを何度も詫び、控え目にソツと名刺を差し出した。

漫画アクション編集部 吉留博之

これがボクと吉留氏との初対面だった。副編集長のミスで、そのピンチヒッターとして原稿を受取りに来たことが出会いだった。

そんな出会いだったが、これを契機に吉留氏はボクの担当となった。吉留氏は鹿児島出身の薩摩男子で秋田出身のボクとはその生い立ちがまるで違っていた。しかし、お互いに無いものが作用したのか、何故か初対面から意気投合し、この時期カップリ四つに組んで語り合い、議論し合うなかから、お互いの歓びを分かち合う作品を次々に生み出す結果となった。

そんな吉留氏がこのほど(7月17日)定年退職を迎えた。氏が編集者の座を退き、今度どんなことをやろうとしているのかまだ聞いていないが、氏のことだから熟慮していることだろう。もう三十六年もの付き合いだ。

それにしても、吉留氏との出会いがなかったら、ボクのその後はどうなっていただろう。どんなマンガ家になっていただろう。それほどまでにボクにとっては有形無形に大きな存在の御仁だった。

ご苦労さんの一言を添えて、氏の今後の活躍を祈るばかりである。
横手市「功労賞」を受賞  更新日時:08/10/10
この度図らずも、ボクの郷里・秋田県横手市より「功労賞」として栄えある表彰状をいただきました。

横手市は3年前の大型市町村合併で、1市5町2村が合併し「新・横手市」が誕生しました。
授賞式は10月4日(土)新市制施行3周年記念式典(横手市民会館)式場で行われましたが、「功労賞」は新市としての第一号の受賞者でした。



受賞の理由は

① マンガ家としてデビュー以来、ひたすら「ふるさと」にこだわり、ふるさとの豊かな自然をフィールドとし、人、風土にまつわるドラマを描き続け多くのマンガファンを魅了し続けていること。

② 横手市を国内外に広くPRする観光ポスターを制作し、(社)日本観光協会主宰の平成20年度ポスターコンクールにおいて「特別賞(イラスト賞)」を受賞したこと。

③ 県産米「あきたこまち」の米袋や、JAふるさと農協の横手市産農産物に「釣りキチ三平」のキャラクターの提供したことにより、地元農産物のイメージアップに大きく貢献されたこと。

④ 「釣りキチ三平」の実写映画化により、観光客誘致にも貢献されたこと。

等々でした。



とにかくボクは、この表彰を大変うれしく謹んでお受けしました。もちろん家族やスタッフ、編集者等々の多くの人々のバックアップがあったればこその受賞であり、とりわけボクのファンの熟烈な後押しがなければ、もたらされない成果であると深く感謝申し上げる次第です。

ただ、ボクにはこの3年間少々割り切れない複雑な思いがありました。新横手市となってから、新聞紙上等に発表されるボクの出身地が「秋田県横手市」となったことでした。

ファンの皆様はご存知の通り、それまでのボクの出身地は「秋田県増田町」でした。それが合併により「横手市」と表記されるに至ったことは、理論的には理解に難くはないのですが、どうもしっくり来ません。ボクの心の中にはまだまだボクのふるさとは「増田」であり、「増田」にこだわり続けていた・・・ということです。

しかし、不思議なものです。この「功労賞」を受賞したその翌日から、そのこだわりが少しづつ薄らぐような気分なのです。あと十日もすれば堂々と「秋田県横手市出身です」と、胸を張って言っているボクがいそうな気がしています。

本当にありがとうございました。
「秋田県文化功労者」に選ばれる  更新日時:08/10/24
ボクの郷里・秋田県は10月20日、今年の「秋田県文化功労者」に、ボク(矢口高雄)を含めた七人を選び、10月31日に県庁の正庁において表彰することを発表した。

この発表が翌21日の秋田さきがけ新報をはじめ、三大新聞の地方版に大きく報じられたわけだが、さあ大変。わが家の玄関のインターフォンが終日鳴り響き、郷里・秋田からの祝電や花束が嵐のように舞い込んだ。

新聞によると受賞の理由は・・・・

旧増田町出身の矢口さんは1970年に漫画家としてデビューして以来、一貫して「ふるさと秋田」にこだわり、豊かな自然を舞台に人や風土にまつわるドラマを描き続けて来た。

さらに「増田町まんが美術館」(横手市)の構想に建設から運営まで尽力し、漫画を通じたまちづくりにも貢献。「釣りキチ三平」が県産の「あきたこまち」や、横手市産の青果物のパッケージのキャラクターになり、地元青果物の販売促進と農家の生者意欲向上に寄与した。

そして来春には、映画「釣りキチ三平」の公開が決まり、県内ロケを通じて観光への誘客にもつながった・・・

としている。

受賞理由はともかくとして、大変光栄なことである。なかでもマンガを通じて地元への貢献が認められたことは素直にうれしく、謹んでお受けすることにした。

そんなわけで10月31日には秋田県庁におもむくことになるが、この一文の続きは表彰式終了後としたい。



「文化功労者」受賞に寄せて  更新日時:08/11/01
とまあ、こんな感じで表彰式は厳粛ななかでとどこうりなく終りました。
式の最後に「表彰者あいさつ」がありましたが、この日のボクの「あいさつ」を添えて、謹んで報告とさせていただきます。

かつて「マンガ」は・・・・

そう、ボクの子どもの頃には友達と貸し借りをし回し読もうと、そっとカバンに忍ばせて登校したものでした。
しかし、これが先生に見つかったら、さあ大変です。

たちまち取り上げられて、罰として廊下に立たされる生徒が少なくありませんでした。教育の場では百害あって一利なしというのでしょうか、まるで害虫のように扱われていました。

いえ、先生たちばかりとは限りません。一般の大人達の間でも「マンガは子供をダメにする」という風潮が根強く、PTAの団体からは悪書の代表のようにヤリ玉に挙げられ、グランドに積み上げられたマンガ本に火を放たれるという悲しい時代もありました。

そんな時代のなかでボクは、手塚治虫にシビれ、あこがれて、やがてはそれを職業とするようになりました。

しかしそんなマンガというジャンルが時代の流れのなかで、かつての大人たちの概念を根底からくつがえす発展をとげ、今や日本が世界に誇るパワフルな文化に成長していることは、衆目が認めるところでしょう。

とは言え、ボクの脳裏の中には、あの少年時代のさげすまされたマンガに対する風潮がトラウマとなり、アレルギーとなってしまったのか、ボクの選択したまんが道の延長線上によもやこの様な栄光が待ち構えていようとは、夢にも思いませんでした。

文化は、若者によって造られると言います。逆を言えば、若者たちに支えられない文化はすたれ、滅びて行くとも言えましょう。

その意味でも、この度のボクのこの受賞は単に『まんが』を『文化』としてお認めいただいたという以上の意義を感じます。多くのマンガファンのみならず、ボクの後に続く若い人達の、大きな励みになることでしょう。
そんな期待と感慨を込めながら、今日のボクのお礼の言葉はコレです。



「マンガ・バンザーイ!!」