矢口高雄の独り言 2009

映画「釣りキチ三平」の試写を観て  更新日時:09/02/20
映画「釣りキチ三平」(東映)の0号フィルムの試写を、2月13日に東映本社試写室で観せていただいた。0号とは、ほとんど完成に近いが、一般公開までにはまだまだ数個所の手直しが入るというものらしい。

とにかく観せていただいた。・・・が、正直申し上げて鳥肌が立った。ボクの原作に迫ろうと、95パーセントが三平の里・秋田ロケを敢行しただけに、水は清く、緑が深くて美しく、それだけでも心の洗われる素晴らしい作品となっていた。

加えて、釣りシーンの演出はこの作品の中核を為すだけに、リアルで、説得力があり、釣りマニアをも十分納得させる迫力があった。

演出に当った滝田洋二郎監督は、今や「おくりびと」で注目の人である。モントリオール国際映画祭のグランプリ受賞に続き、同作品は今年度のアカデミー賞外国映画部門のノミネート作品であるばかりでなく、日本の映画賞を総ナメにする勢いである。

もはや世界の巨匠監督の仲間入りをしていると言っても過言ではあるまい。

そんな滝田監督の次なる作品が「釣りキチ三平」と言うわけだから、そこがまた面白いではないか。きっと、話題作として注目を集めることになるだろうし、原作者のボクとしては大いに期待したいところである。

  

一方、「釣りキチ三平」は、まず三平役を演じた主演の「須賀健太くん」がいなかったならば、おそらく映画化は実現しなかっただろう。

10年間続いたボクの原作が終了したのは昭和58年(1983年)である。その間ハリウッドを始めとする多くの映画化やテレビ化の企画が打ち出されたが、一つとして実現に至らないまま25年の歳月が流れた。

大自然を舞台にした勇壮なドラマであり、とりわけリアルな釣りシーンの実写化が困難との判断も働いてのことだったろう。

しかし、最も難しかったのは、肝腎の主人公・三平くんのキャスティングではなかっただろうか。三平くんを演ずる少年が、どこを捜しても見つからなかった・・・ということではなかっただろうか。

そんな日本映画界に彗星のごとく出現したのが「須賀健太くん」だった。

「須賀健太くんを三平役に・・・・」と、プロデューサー氏より知らされた時のボクは思わず膝をたたいて小躍りした。あまりにも原作のイメージにピッタリだったからである。

言葉を換えて言えば、ボクの原作が25年間もの歳月を費やしながらひたすら待ち続けていたものは、一も二もなく「須賀健太くん」の出現だったように思う。

その意味でも、須賀健太くんの存在そのものが、映画「釣りキチ三平」のすべてと言っても過言ではない。
滝田監督のオスカー受賞に寄せて  更新日時:09/02/27
滝田洋二郎監督が「おくりびと」でアメリカのオスカーを獲得したことは、
連日にわたるテレビや新聞報道でご存知だろう。

滝田監督は、その受賞のスピーチで

「この賞は、私の新たな旅立ちの一歩としたい」

と言われた。

その記念するべき旅立ちの第一歩が「釣りキチ三平」とは、なんとカッコいいことだろう。日本では映画「釣りキチ三平」はかなり宣伝されているので、浸透しつつあるだろうが、世界的にみたら、オスカー受賞直後お第一作目が国民的人気マンガの実写化と聞いたら、大きな驚きであり、注目を集めるのに十分だろう。


写真は2月15日、釣りキチ三平の先行上映会(増田まんが美術館・コンベンションホールにて)滝田監督、須賀健太くん、香椎由宇さん、そしてボク

その証拠に30か国あまりの国外からのオファーが殺到している・・・と今朝のテレビや新聞が報じていた。何だか、思ってもみなかった方向に事態がどんどん進んでいる様で、原作者のボクとしても、戸惑いと共にうれしさを隠すことが出来ない。

改めて滝田監督とスタッフ、キャストの皆さんにおめでとうと申し上げる。
オフレコのオスカー像  更新日時:09/03/05
「3月3日は三平三平の日でーす。ボクが勝手にそう決めさせていただきました!」

主役・三平に扮した須賀健太くんの元気な一声で「釣りキチ三平」の完成披露試写会の幕は切って落とされた。

滝田洋二郎監督のオスカー受賞という、台風のような追い風に乗った試写会場(丸ノ内東映)は、マスコミ各社総出の取材ということもあって、開場前に既に黒山の人だかりだった。

7時よりステージあいさつ。上映開始が7時40分というスケジュールだったが、この日のボクは3時15分に会場の控え室に入った。FMラジオの「学問のすすめ」という番組の収録と、NTVの「スッキリ!!」の取材があったからだ。

控え室に入ったら、滝田監督も、三平役の須賀健太くんも既に控え室入りしていた。聞けばお二人にもテレビ各社のインタヴューが殺到しているという。
緊張のなかにも、やっとこの日を迎えることが出来たという満足感に溢れていた。



ところが、この控え室で思いもよらないサプライズに見舞われた。「おくりびと」で滝田監督が獲得されたオスカー像をこの手に抱かせていただいたのだ。テレビ出演のため、滝田監督が控え室に持ち込んでいたという、またとないチャンスに恵まれてのことだった。

感激の対面だった。

まばゆいばかりの光を放っていた。もちろん監督のすすめで抱かせていただいたわけだが、3.8kg。賞のおもさそのままに、ズッシリと胸に応えた。当然監督とのツーショット写真にも及んだが、この写真のアップは控えることにする。控え室内でのオフレコ事項だからだ。

ステージあいさつは滝田監督、一平役の渡瀬恒彦さん、三平役の須賀健太くん、愛子役の香椎由宇さん、魚紳役の塚本高史くん、ユリッペ役の土屋太鳳ちゃん、そしてボク(矢口)の七名。



MCの司会で、撮映中の苦労談やかくされたエピソードが披露され、万雷の拍手のなかに滞りなく終った。・・・が、場内の熱気は大ヒットを予感させるものがあった。

さて上映である。

この映画はポスターはもとより、パンフレットに至るまでのすべてに、単行本等でおなじみの「釣りキチ三平」のロゴが統一されて使用されている。しかし、映画にはこのロゴが一箇所も使用されていない。

東映本社の試写室で初めてそのタイトルシーンを観た時、ボクは思わず鳥肌が立った。なんと、ボクがこの映画のために書き下ろした筆文字なのである。監督が、ボクの筆文字がたいそう気に入ったらしく、編集段階に入ってから急きょボクに依頼して来たのだ。そのタイトル文字の出来栄えは、観客の皆さんの判断に委ねるとしても、これは滝田監督のこの映画にかけた「こだわり」から生れたものである。タイトル文字の片隅にボクの落款が押されていることをお見逃しなく。

試写室で観たのは0号フィルムと呼ばれるもので、ほぼ完成に近いものだが、若干の手直しもありというフィルムだった。しかし、監督は最後までこだわったのだろう。

特にCGの部分にはかあり手が加えられていて、すばらしい完成品になっていた。

エンドロールが流れるなか万雷の拍手が惜しみなく鳴り続いていた。
「カムチャツカ編」完結バンザイ!!  更新日時:09/04/01
なんと気の遠くなる様な歳月だったろう。

「三平 in カムチャツカ編」の執筆を開始したのは2003年秋のことだった。それが今日(3月31日)やっと完結にこぎつけた。足掛け6年の歳月である。途中、「釣りシーン」のないドラマ展開にフラストレーションを感じ、「御座の石」を一本はさませてもらったが、こんな長期間にわたって二本の作品に打ち込んだのは、記憶にない。ひとえに読者の皆様のご支援の賜と深く貨車申し上げる次第です。

とは言え、完結の最終ページまでのネームを採り終えたというだけで、作画しなければならないのは30ページも残っている。加えて、パーソナルマガジン「平成版No8号」を発刊するには、まだ110ページ程足りない。作画を終え次第二本ぐらいの短編を描こうと思っている。・・・が、とにかく6年越しの大長編にピリオドを打つことが出来たうれしさに、この度の「独り言」となった。

ボクの行きつけの「うなぎ屋」に変屈な親父がいる。注文を受けてからやおらうなぎを採り出し、さばきにかかる。だから料理が出来るまでは、結構時間がかかる。でも親父は平然としてこううそぶく

「ちょっと待たせるけど、いい仕事をするから任してくれ・・・・・」

ボクもこの際この言葉をお借りしたい。完結編の「ワシリの滝編」は、自分で言うのもおこがましいが、ハッキリ言って面白い。描きたくてウズウズしていた「釣りシーン」が、心行くまで存分に描くことが出来たからだ。

続く二本の短編もこの調子で乗り切る覚悟だ。つまり、平成版No8号の発売まではまだかなり時間を要するだろう。

でも「いい仕事をするから、任してくれ・・・・・!!」
「劇的な美声」  更新日時:09/07/08
久しぶりにコラムを一本・・・・・・。

ついにと言おうか、かねてより懸案だった声帯ポリープの除去手術を、6月29日都内の大学病院で行った。

声帯は喉頭の中央部に位置する、いわゆる声帯装置で、喉の空気の通路(声内)に左右一対ずつある。つまり、その幅を狭めたり緩めたりしながら、肺から出させる空気によって振動させ音声を発する器官である。そこに出来たポリープを除去したわけだから、傷口がいえるまでのほぼ一週間が発声禁止となる。

その期間もどうにかクリアし、つい2~3日前より地声で話すことが出来るようになったので、まずはご安心いただきたい。

声帯の異変に気付いたのは、かれこれ4~5年前のことだったろうか。日頃のストレス発散のため、繁く通ったカラオケが原因だったと思う。とにかく、3曲も歌えばたちまち声が枯れて、うまく歌えなくなったのだ。今にして思えば、選曲の片寄りのも問題があったのだろう。ささやくようなスローバラード調の曲はあまり好きではなく、サビの部分では目一杯声を振り上げる絶叫型の曲が好みだった。

つまり、ボクのカラオケの目的は一つにかかってストレスの発散にあったわけだから、自分さえ気持ち良く、いい気分に浸りさえすれば、それで良かった。

そんな歌い方だから、知らず知らずに声帯に無理を強いる結果になっていたのだろう。

それにしても、いい友人に恵まれるということは、人生において大切なことである。行きつけの寿司屋の飲み友達に耳鼻咽喉科の開業医がいた。氏は当然のことながらその道のプロである。月日を重ねるごとにしわがれて行くボクの声を気づかい

「一度診察させて下さい」

と言うことになって、ボクは重い腰を上げた。
そして、それが手術に踏み切るきっかけとなった。

まだ二十代の銀行員の頃、カゼをこじらせて肺炎に発展して、5日間程入院したことがある。思えば、それ以来のことだから、40年振りの入院ということになる。

それだけに、何もかもが新鮮な体験となった。全身麻酔というものも初体験だったし、わずか一週間ではあったが、発声禁止で全てが筆語という体験も、得難い非日常的なものだった。

ところで発声禁止の解けた現在の地声であるが、まだ自分のイメージする美声を取り戻したという実感はない。医師が言うには、ポリープを除去した声帯はいわゆる腰がない状態で、しばらくはガラガラの低音に聞こえるだろうが、傷口さえ回復すれば劇的な美声になる・・・とのこと。

その日が訪れたら、思いっきり井上陽水に挑みたいと思っている。

楽しみは急ぐべきではあるまい。
「スケール・イーター」  更新日時:09/09/08
ネタ元は毎日新聞のコラム「余禄」からである。それによれば、アフリカのタンガリー湖に「スケール・イーター」なる実に風変わりな魚がいるという。スケールは英語で「うろこ」の意味だ。



とにかく、このスケール・イーターは自分より大きな魚の忍び寄り、体当たりざまに何枚かのうろこをはぎ取って食べてしまう。

名前の由来はそこにあるわけだが、この魚が変わっているのはそればかりではない。「右利き」と「左利き」があるというのだ。

つまり、もっぱら獲物の右側から突撃するものが「右利き」で、こいつは口が左方向にねじれている。その方が、うろこを効率的にはぎ取れるからで「左利き」はその逆というわけだ。

どちら利きになるかは遺伝によって決るらしく、その割り合いは一対一だという。しかし更に面白いのは、右利きが優勢な時期と左利きが優勢な時期があって、それが数年周期で入れ替わることが最近分かって来た。

つまり、右利きがはびこれば襲われる魚たちは一斉に右側のガードを重点的に固めて警戒するようになり、そうなるととたんに左利きがその利を生かしてはびこり出すというのだ。

いやはや、自然界の絶妙なバランスと魚たちの生き残りをかけた、懸命なかけひきがうかがえて、興味深いコラムだった。・・・が、昨今の一夜にして変わってしまった自公民と民主の立場とがあまりに似ていて、思わず笑ってしまった。
「荘厳な宇宙の夜明け」  更新日時:09/09/19
全身麻酔の体験をした。

既にこのコラムにアップしたことだが本年六月末に声帯ポリープの除去手術受けた折りのことで、生まれて初めての体験だった。

マンガ家は好奇心の塊である。わが人生の一大事に臨もうとしているのに、
不安に落ち込むことはほとんどなかった。

いやむしろそれを体験出来る機会に恵まれたと、喜ぶ程の気分だった。どんな感じに眠りに落ちるのだろう。夢でも見るのだろうか。そして、それから覚める過程とはどんなものだろうか。興味津々だった。

素っ裸にされ、褌をはかされ、術衣に着替えさせられてキャスターに乗った。さあ、手術台である。執刀の主治医や麻酔医、看護師たちによる事前の念入りなレクチャーを受け臨んだので、事態はその通りに進んだ。

麻酔薬は点滴のチューブを通じて注入された。・・・が、ものの5,6秒も必要としなかっただろう。あれよと思う間もなく、ボクの意識は真暗闇に堕ちた。
意識がないわけだから、夢もなにも見えず、音も聞こえない。

おそよ無の世界としか表現しようがなかった。

麻酔開始から覚醒にいたるまでは、およそ二時間を要したという。だがその醒めて行くプロセスは実に感動的なものだった。

暗闇の中にポッカリトゴルフボールぐらいの灯り見えた。青白い灯りだった。
そして、それが次第に広がって行く様は、まるで荘厳な宇宙の夜明けを思わせた。

・・・と、同時にいずこよりか妙なる音楽が忍び寄ってきた。映画「2001年宇宙の旅」のオープニングに使われたあの壮厳なシンフォニーで、それが次第にヴォリュームを増していく。耳が張り裂けんばかりの音量に達した時、どこかでボクを叫ぶ声が聞こえるような気がした。

もちろん、それは看護師の声であり、ボクの身は既に手術室から病室のベッドに移されていたことになるのだが、それが誰の声なのか確かめようと、ボクは焦った。

例えば、こんな体験は誰にもあるだろう。悪漢や怪我、あるいはお化けのような恐怖に襲われ逃げまどう・・・いわゆる悪夢に悶え苦しんだことが。あせればあせるほど恐怖は背後に迫り、汗びっしょりで目覚めたという経験が・・・・・。

ところが、麻酔からの目覚めは全くその逆だった。何もかもがボクに都合の良い方向に展開し、あせりはいつの間にか消え去ってなんとも心地良い宇宙の夜明けに促されるように、うっすらと目を開けた。

・・・と、そんなボクの眠前に、スローモーションのように浮かび上がったのは、ボクの名前を呼び続ける看護師の笑顔だった。

声帯ポリープの手術は、術後一週間は発声禁止である。だからボクは枕元にあらかじめ用意していた筆談用の紙とペンを取り出し、書いた一行は「あなたはとっても美人ですね」だった。そして、これも術前に試みようと決めていた「三平」の笑顔を描いた。

麻酔から醒めた直後のボクのデッサン力が、どれほど回復しているかを確かめてみたかったのだ。しかし、まだ完全に回復も切らず、狭い視野の中であり、寝たままの姿勢で描いた「三平クン」だったが、予想外にしっかりしていた。

そして、この絵は、その後入院中に交わした筆談の数々と共に、今も大切に保管している。
「大学教育諮問会議」  更新日時:09/09/21
秋田市に、学校法人「ノースアジア大学」という、経済学と法学部からなる大学がある。かつては「秋田径法大」(創立昭和26年)を名乗ったが、近年その校名を変更したものだ。高校野球のメッカ甲子園の常連校として勇名をはせた「秋田径法大付属高校」(現・明桜高校)はその系列校と言えばおわかりの方も多いだろう。

さて、この度ボクはその「ノースアジア大学」の教育諮問会議委員に委嘱された。任期は平成23年3月31日までの、およそ二年間である。

高卒という学歴しか有していないボクが何故・・・?との疑問もあったが、
学長よりのていねいな就任要請書をいただき、快く引き受けることにした。

その要請書の内容はおおむね次のようなものであった。

「今時多くの大学では、学生を大人扱いし、学生の自由に任せて大学生活を過させている。しかし、そんな扱いが試験の時期以外にはほとんど勉強しない学生を生み出しているのか、あっという間に四年生になって、そのまま卒業というケースが少なくない。結果、運よく卒業出来てもロクに挨拶も出来ない、忍耐力も気力も無い学生のまま実社会に出て行くことにな。これではあまりに大学生活と実社会との間にギャップがあり過ぎる。その証拠に、せっかく就職したはずの会社も辞めてフリーターになったり、なかには多重債務者に陥る学生もいる。こんな現状をふまえて、本学の教育の基本的方針について忌憚のないご意見をお伺いしたい」

これが教育諮問会議設置の理由だった。要するに、学生の本部である勉強に集中させるためにはどうしたらいいかだろう。同時に社会人としての礼儀やしつけをどう指導するべきかということだろう。

しかし、大学生に限った問題では無い。いつの時代にも、教育現場が根本的に悩んできた問題であり、小学校にも、中学校にも、高校に言える難題である。
そう考えたとき、少ないながらもボクの経験が役に立つならと、引き受けた次第である。
「同じ顔」  更新日時:09/10/04
「マンガ家は、ひょいひょいといつも同じ顔が描ける。そこが不思議でならないんだよなァ・・・・・」

と、よく言われる。しかし、それに対するボクの答えはいつもこうだ。「同じ顔なんて一度も描いたことがないよ。あなたにはそう見えるかも知れないけど、ボクはその場その場で必要な表情を描いているだけで、同じ表情なんて
現実にも二度と有り得ないんじゃないかなァ・・・・・・」

いい例が「三平くん」だ。連載を開始した頃の三平くんと、最新作の三平くんでは、顔も表情もまるで違っている。設定上の年齢は同じだったとしても、長い年月様々な試練(ドラマ)に出会い、必要に迫られてその場その場に最も適切な表情を獲得していく。キャラクターとして定着するということは、そういうことだ。

詰まり、キャラクターとは、そこまでにいたるストーリーの全てを背負い込んで、その時にしかたない表情をするわけで、同じ顔なんて二つとあるはずがない。
「予行練習」  更新日時:09/10/15
マンガの神様・手塚治虫先生が晩年、きれいな円が描けなくなった・・・と、嘆いていた。晩年といっても手塚先生は60歳でこの世を去ったわけだが、年齢だけを比較すれば、ボクは今年中に古希を迎える。それだけに手塚先生の嘆きは、分かるという段階を既に通り越して、ボク自身の現実でもある。

頭脳的な衰えは、新しい情報を加えたり、経験の積み重ねによっていくばくかはカバー出来るだろうが、肉体的な衰えはいかんともし難い。

ボクには今年91歳を迎えようとしているおふくろがいる。最近テレビドラマをほとんど観なくなった。理由は、途中から意味がわからなくなるからだそうだ。カットカットの連続で組み立てられていくドラマが、途中から理解出来なくなっていくというのだ。もちろん個人差はあるだろうが、老いるということは、そんな諸々が機能しなくなっていくものだろう。

そんな時ボクは、思い切って話題を変える。子どもだった頃のことや、おふくろとの共通の想い出話に華を咲かせ、しばしの相手をする。するとおふくろは薄れた記憶を必死にたどりながら、たちまち生き生きとして来る。その様は見ているだけでほほえましく、楽しい。

つまりボクは老い行くおふくろを手本にしながら、来るべきその日に備えての予行練習をしてるのかもしれない。
「マンガ家は誰のもの・・・・・?」  更新日時:09/10/31
かつてマンガ家はほとんどがフリーだった。原稿の依頼があり、編集部との企画が合致すれば、どこの出版社のどの漫画誌にも描けた。

しかし、今日では大半が出版社との専属契約制のもとに、専属する出版社の発行誌以外には描くことが出来ない。そして、この傾向は特に少年誌に顕著である。

かつてのフリーだった時代には、発表誌にも少なかったが、マンガ家も多くはなかった。だから、当然のことながら人気のあるマンガ家には多くの以来が集中したし、一人で何誌も連載を抱えるマンガ家がいた。

だが、走した人気マンガ家に依頼が集中すれば、必然的マンガ家のオーバーワークを招き、締め切りに間に合わないケースが多発した。これは出版社にとっては一大事である。原稿待ちのため輪転機を止め、そのしわ寄せが製本や配本にも大きなリスクをもたらした。

そこで考え出されたのが専属制だった。一握りの人気マンガ家に頼るシステムを脱却し、当面は本が売れないかも知れないことを覚悟の上で、意欲ある新人の発掘に乗り出したのだ。新人には、当該誌以外には描かないことを条件とする専属契約のもとに、研究費や契約金が支払われた。

やがてこのシステムは大成功を収めることになる。締切りの遅れによるリスクが解消されそれまでの既成のマンガ家にはないフレッシュな新人が多く誕生するに及んで、他の出版社もこぞってその方式にシフトを転換した。

これにより、マンガ界の勢力図は大きく変わった。日本のマンガが世界に誇る一大カルチャーとして注目を集めるに至った功績は、このシステムの選択にあったといっても、過言ではないだろう。

しかし、どんなシステムにも功罪はある。もちろんマンガ誌作りは編集部の企画主導で行われるわけだが近年はその主導力ガ強すぎるように思えてならない。まず企画があって、それをどのマンガ家に描かせようかという事になる。
その編集の主導力が強過ぎて、マンガ家が何を描きたいのかが二の次にされているような気がする。マンガを描くのはマンガ家の仕事だから、まずマンガ家が描きたいと思うモノが尊重されるべきである。幸い力量を発揮し、読者の人気を勝ち得た一部のマンガ家にはそれが許されるとも聞くが、新人やかなり中堅のマンガ家のなかには、ネーム(絵コンテ)が出来ても編集部のOKが出ないと作画に入れないケースが少なくないと聞く。

これでは、マンガ家の描きたいと願う情熱や個性や、持ち味が希薄になってしまうだろう。もちろん編集部も、そしてマンガ家もよりよい作品を創り読者に届けるためには、最後のギリギリまで粘るのは当然の事である。

しかし、近年マンガ誌の発行部数が著しく減少している。原因として経済の不況や少子化、インターネットや携帯デンワの普及等々があげられている。たしかにそれはあるだろう。往時とは時代背景がまるで変わっているわけだから。

そんな現状を踏まえながら、一つ大胆な提言をしてみたい。「マンガ家の専属制度を撤去してみたら・・・・・?」という提言である。専属制が敷かれてかれこれ三十年余りの歳月が流れた。そろそろこのシステムに疲労が来ていることに原因の一端があるのではないか。

専属制には大きな功績もあった。だが、人気マンガ家が特定の出版社に偏るという弊害が出てきた。そんな状況に不満を持つ読者も少なくないだろう。あのマンガ家の、こんな作品を呼んで観たいと考える読者もいるだろうし、あのマンガ家にこんな作品を描かせたいと思う編集者も多いだろう。少なくとも専属制はそれを大きくはばんでいる。

つまりボクが言いたいのは「マンガ家は誰のものか」ということである。答えは明解だろう。マンガ家は読者のものであって決して出版社のものではない。
読者こそが最大の主導者であり、出版社の生命は企画力である。その企画に賛同するマンガ家はどの出版社のマンガ誌に描こうが自由である。

そう、かつてもマンガ家がフリーだった様に、自由意争の原理を導入するのだ。そうすれば、日本マンガに新しい活路が生れて来るかも知れない。

最後にもう一度言う。マンガ家は読者のものである・・・・・と。
「地域文化功労者表彰に寄せて」  更新日時:09/10/31
この度、本年度の「地域文化功労者」として文部科学大臣より表彰を受けることになりました。

文部科学省の発表によれば、本年度の受賞者は全国各地より推挙された79個人、17団体にのぼり、ボクはそのなかの一人というわけですが、表彰式(11月6日)では全受賞者を代表してあいさつを申し上げることになっています。

それはさて置きこの度の受賞は、ひとえにファンの皆様をはじめ、
多くの方々のご支援の賜と深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。
「菊地雄星投手西武へ」  更新日時:09/10/31
20年に一人といわれる逸材、154キロの左腕花巻東高校の菊地雄星投手が
西武ライオンズに指名された。

西武ファンのボクとしては「してやったり!!」である。

いや、ファンとしてばかりではなく、一プロ野球ファンとしても、最もいい球団に指名されたのではと思う。なぜならば雄星くんは大リーガーも視野に入れて来た甲子園NO1の投手である。その点西武はかつて松坂投手を育て、大リーグへ送り出した球団だから、育成という観点でも最もノウハウを持った球団である。

是非西武を日本一に押し上げ、日本を代表する投手となって、堂々と大リーグに挑戦してもらいたい。

雄星くんの健斗と、輝かしい明日を切に祈るばかりである。
「地域文化功労者表彰式」  更新日時:09/11/11
文化科学省制宣の本年度「地域文化功労者」の表彰式が11月6日、千代田区如水会館で行われ、ボク(矢口)も受賞者の一人として表彰の栄に浴して参りました。





地域文化功労者は、日本各地の地域文化振興に功績のあった芸術文化人の
個人、団体に贈られる文部科学大臣表彰で、本年度は79個人、17団体が受賞しました。

表彰式は文部科学副大臣出席のもとに厳粛に行われましたが、その最後に全受賞者を代表してあいさつを申し上げる役をボクがおおせつかりました。

めったいない体験にいささか緊張しましたが、無事につとめて参りました。これもすべてファンの皆様の熱いご支援の賜と深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。
「凡人のあさましさ」  更新日時:09/11/12
昨秋から今秋にかけて二つの公的表彰を受けた。昨秋の「秋田県民文化功労者」表彰(文部科学大臣)である。

こうした表彰には、表彰式の一ヶ月~二十日程前に内示というものがある。
その賞を受諾するか辞退するかの確認であり、受諾する場合には表彰式当日の
スケジュールを開けて欲しい、というものだ。

もちろんボクにも内示があり、身に余る光栄と感じて喜んで受諾したのだが、受諾者には注意事項があった。つまり、表彰式の数日前に被表彰者の氏名、年齢、経歴、功績等を報道機関に発表するので、ご承知下さいますように・・・というものだった。

この言い回しは実に婉曲な官公庁の用語だが、単刀直入に言えば

- 発表されるまでには、めったやたらに他言してはならない -

と言うことになる。

これは結構苦しいものだ。悪事ならば胸に秘めて置くことも可能かもしれないが、こんな慶事を隠し通すこと事態不自然である。結果、妻や家族など内々の数人にはこっそりと伝え、密かにガッツポーズで、控え目な乾杯をすることになったのだが・・・・・・。

もう一つ大きなプレッシャーを強いられた。つまり内示を受けてから表彰式に至る日々の生活そのものに、賞の重さがのしかかってきたことだ。下世話に言えば、交通違反等々の公序良俗に反する行為を行ってはならないということだ。何気なく過ごしている普段着の生活も、そう考えると結構窮屈なものだった。

公的表彰の喜びの裏には、緊張の日々があることを初めて体験することとなった。

凡人のあさましさと言う以外にあるまい。
「生活必需品」  更新日時:09/11/24
テレビドラマ「北の国から」などの脚本家・倉本聡氏が、俳優や脚本家を養成する富良野塾を開いたのは84年のことだ。授業料、入学金、授業料不要。

ただし塾生は近隣の農家で農作業に従事し、自らの生活費を自らで稼ぎ、2年間共同生活をしながら演技や創作を学ぶというシステムだった。

そんなシステムを二十年余年も続けるなかで、ある年倉本氏は塾生に次なる質問をしたという。

「キミたちにとって何が生活の必需品か・・・・?」

塾生は答えた。一位が水、二位が火、三位がナイフで四位が食料だったという。

この話を聞いたテレビ局のプロデューサーが、それは面白いということになって、同じ質問を渋谷の同世代の若者たちにアンケートした・・・・という。

結果出た答えが一位がカネ、二位携帯、三位テレビ、四位車だった。

「生きる」という根本姿勢に大きな価値基準の相違があるということだろう。
「生きる」ということは「死」と隣り合わせているという道理が、渋谷の若者たち脳内には忘れ去られているのだろう。

そう言えば、富良野塾では13位に「人」も入っていたという。水や火やナイフや食糧が必需品と答えた若者たちが、人間は一人では暮らせないというところまでたどりついていたことになる。仮に渋谷の若者たちが「彼もしくは彼女」と答えたとしても、「人」と答えた富良野塾生のそれとは重さが全く違って聞こえるのは、ボクばかりではあるまい。
「三勝三敗」  更新日時:09/12/27
昨秋の「秋田県文化功労者」表彰の余韻を残しながら迎えた2009年だったが、慶事は続いた。三月に長年の夢だった「釣りキチ三平」の実写映画化が現実したことだった。

これで二連勝とあってあわただしい一年の幕が開けたのだが、好事魔多しとは良く言ったもので、その後思わぬアクシデントに三度も見舞われようとは夢にも思わなかった。

一度目は六月の声帯ポリープ摘出手術。もっともこれは十年余前からその兆候と自覚していたので覚悟の上での予定の手術台ではあった。しかし、二度目と三度目はまさに予期せぬ痛恨のアクシデントだった。

二度目は八月のお盆に帰省した折りのことだ。住み慣れたはずの実家の、ほんのわずかな段差にたたらを踏み、横転して脇腹をしこたま打った。幸い骨折には至らなかったが、打った側を下にして眠れないことと、咳込めば激痛の走る日々が一ヶ月続いた。

三度目はシンポジウムで訪れた秋田の温泉宿の風呂場だった。硫黄泉のヌルヌルしたタイルに滑って大股開きの醜態を演じた。

これもまた幸運なことに骨には異常なく、庇い手による右手の損傷もなかったのだが、大腿部から膝にかけてのおびただしい内出血に見舞われ、完治にほぼ一ヶ月を要した。

これでたて続けに三度の災禍に見舞われたわけで、昨秋からの戦果は二勝三敗に終るかに見えた。

しかし、天はボクに大きなほほえみを残してくれていた。晩秋の11月6日「地域文化功労者」として文部科学大臣表彰の栄に浴したのだ。

こうしてボクの2009年は三勝三敗で暮れようとしている。来年はどんな年になることだろう。少なくとも痛い目には会わないことを切に祈るばかりである。