矢口高雄の独り言 2010

「新年に寄せて」  更新日時:10/01/06
ファンの皆様、明けましておめでとうございます。

昨年も多大のご支援をいただき、本当にありがとうございました。

さて、今年はなんと言ってもボクの「マンガ家生活四十周年」という大きな区切りの年であります。

・・・と同時に、横手市増田「まんが美術館」オープン十五周年に当ります。

そんなわけで今年の秋頃にはこの二つ記念した大きなイヴェントを企画しております。

もちろん「まんが美術館」を中心とした記念式典も行われるだろうとは思いますが、ボクとしては「矢口高雄40th SPECIAL THANKS展」的な一大企画展を行いたいと考えています。

今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
「ひねり出す」  更新日時:10/04/12
先日BSテレビに水木しげる先生が出演していて、数々の苦労話を語っていた。「ゲゲゲの鬼太郎」の連載中で、締切りギリギリの苦戦苦闘中のエピソードだった。まだその週の原稿も上っていないのに、次週のタイトルを入れて欲しいとの編集部の要望。今週の原稿も終ってないのに、次週のアイデアなど全く考えられない状況に陥った水木先生は、トコトン困り果てたらしい。

そんな時、スタッフ同士の会話が聞こえて来た。徹夜続きで相当お腹も空いていただろうスタッフの会話は「もんじゃ焼きを食べたいね」だった。

果たせるかな、次週の予告として水木先生がひねり出したタイトルは「妖怪なんじゃもんじゃの巻」だったと言う。いかにも水木先生らしいエピソードに、腹を抱えて笑った。

これも実際にあった話。

カラー原稿は、通常の活版ページより締切りが一週間程度早い。あるマンガ家がカラー4頁のついた作品の依頼を受けた。しかし、どうしてもストーリーが思い浮かばないまま、カラー頁の入稿を余儀なくされた。困り果てたマンガ家は、とりあえず主人公を車に乗せて、街角から街角へと走る、ほとんどストーリーのない原稿を描いて渡したという。とりあえず急場をしのぎ、活版に取りかかるまでの時間を利用して続きのストーリーを考えたらしい。

ボクも一度だけだが、その手を使ったことがある。いや、ボクの場合はおおむねのドラマは出来上がっていたが、ストーリーがイマイチ平凡過ぎてパンチに欠けた。

そこで考えたのは、三平に急を告げようと走る正治の登場。

正治「師匠-------っ!!てえへんだ、てえへんだ!!」

三平「まーた始まったか、正治のてえへん病が・・・・・・」

正治「師匠、そんなにのん気に構えてる場合じゃねえ」

三平「なんだよ、そのてえへんな事って・・・・・」

これで4頁である。てえへんのドラマは活版に取りかかるまでにじっくり考えた・・・というわけ。

しかし、どうしようもなく追い込まれて描いた作品のなかには、予想外な緊迫感みなぎる作品が多い。逆に、考える時間がたっぷりあって、自信満々で描いた作品が、読み返してつまらないこともある。
「最新刊」  更新日時:10/04/14
単行本発売のお知らせです。

4月16日(金)
●平成版「釣りキチ三平/ワシリの滝編」第11巻



5月17日(月)
●平成版「釣りキチ三平/御座の石・能登のタコすかし編」第12巻



長いことお待たせしました。

平成版「釣りキチ三平」のKCDX版11,12巻が2ヶ月連続で発売されます。
なかでも11巻の「ワシリの滝編」は、七年間の歳月を費やして描いた
「三平 in カムチャツカ編」の最終話です。

しかも「カムチャツカ編」5~11巻は、昭和版、平成版を通じての最長編作品となりました。

これだけの大長編を、よくも飽きずに描き綴ったものだと、
われながら感心しています。
「独り言二題」  更新日時:10/04/20
「竹を割ったような性格」と言えば、日本では「さっぱりした、邪悪な心や曲がったことのない」良い気質とされている。しかし、ヨーロッパでは「浅見短慮」の悪い気質だと言う。

「短気で、浅はかな見識」ということか。なるほど・・・・・・

中国では500元程度の万引きや窃盗は警察に検挙されるほどの事犯ではなく、
たいていは当事者間の示談や、警察による叱責で済まされると言う。
しかし、日本では被害金額の問題ではなく、事犯は事犯として刑法にのっとり
逮捕、拘束され刑罰が課せられる。

グローバル化された今日、この手の事犯で日本の警察の手をわずらわせる中国人が多い。
・・・が、捕まった中国人は日本の警察の取り調べに対し一様に「日本は中国人を差別している」と猛抗議をするらしい。中国ならばこの程度の事犯はたいしたことではない・・・という中国人の意識が「差別されている」という意識に転化しているのだろう。

しかし、そんな中国も過日、麻薬密輸の現行犯として逮捕した三名の日本人を、あっという間に「死刑」にした。麻薬に関する犯罪は決して軽いものではない。

むしろ重大な犯罪だとボクも思っているが、逮捕から死刑執行までの時間があまりに性急過ぎる気がする。裁判の公平性と、人命というものをどう考えているのか、という点においてである。

これに対して日本政府は、日中友好に関する「懸念」という言葉で異議を唱えるにとどめたが、多くのマスコミは反発した。「この事犯に死刑の摘要はないだろう」というものだったし、多くの日本人もそう考えたことだろう。

500元の窃盗犯には叱責でとどめる一方で、麻薬密輸犯には即死刑という落差は一体何だろう。国情の違いというだけでは、とうてい納得出来るものではない

しかし、これだけは言えそうだ。かつての中国は「阿片戦争」と呼ばれる国辱的な歴史を有している。麻薬は国を滅ぼすという教訓を身を持って知っている国である。

この度の日本人の「死刑」が、ここに起因しているとすれば、うべなるかな・・・・である。
「無謀なプロット」  更新日時:10/04/20
つい先日『平成版 釣りキチ三平」の最新刊11巻が出版社より届いた。足掛け七年がかりを費やした「三平 in カムチャツカ編」の最終章「ワシリの滝編」である。

インクの香りもかぐわしい一冊を手に取りながら、妻がしみじみと言った。「マンガ家っていいわねェ。こうして、自分のやった仕事が形として残るんだから・・・」

その言葉にハッと胸を疲れた。四十年前を思い出したからだ。

四十年前のボクは郷里秋田で銀行マンをしていた。年齢(よわい)三十を数えて、子どもの頃から夢だったマンガ家になろうか、なるまいかで悩んでいた。
年齢も年齢ながら、二人の娘の父親でも会った。思い切って踏み出し、なれたら言う事は無いが、なれなかった場合のリスクは大きい。

しかし、夢を実現するにはこの年以外にない。タイムアップ寸前に追い込まれた心境に苛まされていた。

そんなとき思い浮かんだのは、夢のようなプロットだった。

「もしマンガ家になって、死の床に伏している。この単行本は、読もうと思えば孫子の代まで読み継がれるだろう。私のおじいさんは、若い頃こんなことを考え、こんなドラマを作っていたのか・・・と。つまり、男子一生の為したる仕事が、形として末代まで残り、語り継がれることになる。

例えばこのまま銀行マンとして生き、仮にその使命をまっとうしたとしても、
子どもの育て、退職全てでカタツムリの殻程度の家を遺して終えるだろう。

それが男子一生の為したる仕事の証なら、少し寂しい気もする。その点マンガ家になって、多くの単行本を遺すのなら、なんと素晴らしいではないか。ボクは満足気に孫子の顔をながめながら、ゆっくりと息を引き取る・・・」

これが、ボクの立てたプロットだった。かなり独りよがりな、無謀なプロットと言う以外にない。・・・が、このプロットがひねた三十男の勇気となり、何年間も躊躇して踏み越えられなかったマンガ道に、ズンと踏み出すことになった。

人生の沢断びおいて、時には無謀の行く手に光明も見出すこともある。おかげで今日のボクの書斎には、プロットでは想像も出来なかった単行本が周囲を埋め尽くしている。
独り言「車輪の小さい自転車」  更新日時:10/04/26
直径30センチ余りの車輪の小さい自転車に乗っている大人を時々見かける。
その度に思うのだが、あの手の自転車が普通の自転車と同じ機能を有しているなら、もっと使用者が増えてもいいはずだ。

デザイン的にも面白いものが出来そうだし、車体の軽量化にもつながるだろう。

しかし、流行らないところを見ると、結局のところ安定感がなく乗り心地が悪いのではないだろうか。機会があったら試乗してみたいと思っている。

「矛盾」

「矛盾」という言葉がある。

言葉の語源は中国の故事に由来する。宋代に矛と楯を売る商人がいた。矛を売る商人曰く「この矛はいかなる楯をも突き破る事が出来る」と。対して楯を売る商人曰く「この楯はいかなる矛をもってしても突き破られる事がない」と。

その売り言葉を聞いていた群集の一人が「それではその矛でその楯を突いて見せてくれ」となって、二人の商人が途方にくれる・・・というのが「矛盾」の故事である。

実に愉快な故事ではあるが笑っている場合では無い。人間誰しもが多くの矛盾を抱えて生きている。さしずめボクなどは矛盾だらけで生きている。腰痛を克服しようと連日プールに通い、いわゆる体を鍛えることに余念がない。

だが、プールで一汗を流した後の一服がこよなくうまい。体を鍛えながらタバコを吸っているのである。

これこそ大矛盾と言うべきだろう。

まだある。自然破壊を嘆きながら、便利な都会生活に甘んじ、ステーキやトロの刺身を食べながら動物愛護を唱える。魚族保護を叫びながら、決して釣りをやめようとしない。

この矛盾は何なのだ。結局、ボクは自分で自分がわからない。人間がわからない。

せめて人間の存在そのもの「矛盾」だとすれば、気分的には楽になるのだが・・・・・・。
「盗作」  更新日時:10/04/26
ボクはデビューして間もない頃「盗作作家」の汚名を着せられたことがある。

昭和47年(1972年)、「少年マガジン」より始めての読み切り作品の依頼があった。まだデビューして二年目の新人だったので、原作が用意されていた。
十九世紀のフランスの作家メリメの短編小説「マティオ・ファルコネ」をマンガ化してほしい、との依頼だった。

その依頼をボクは三度お断りした。それまでの二年間原作付きで失敗を重ねてきた苦い経験から「原作付きは二度としない。これからはオリジナル一本で勝負だ!!」と、強く心に決めていたからだった。

しかし、編集部は四度目もやって来た。結局ボクはその熱意に押されて引き受けたのだが、条件を一つ出した。

「マティオ・ファルコネのテーマは尊重するが舞台を日本の幕末のドラマにアレンジさせていただきたい」

この提案が受け入れられて描いた作品が「又鬼の命」で、掲載されたのがこの年の十月だった。ところが、本誌が発表されるや、ボクのアトリエに猛烈な抗議の手紙が舞い込んだ。数的にはそんなに多くはなかったが、

「この盗作野郎、テメエなんか直ちにペンを折っちまえ!!」

という内容のものだった。

ボクはあわてて掲載誌のトビラを開いて驚いた。作者名のわきに「メリメ原作マティオ・ファルコネ」のクレジットが入っているものと思っていたが、印刷のミスかそれがなかった。これでは「盗作作家」とののしられても申し開きなど出来るわけがない。

ただちに編集部にデンワを入れた。だが編集部の見解は・・・・

「独自のアレンジが見事に効いていて、原作とは別のドラマになっていると判断し、あえて原作名を入れないことにしました」

・・・・だった。

当然、編集部にも何件かの抗議はあっただろう。しかし、適宜な対応で事態は収まり、世間的な大事には至らなかったが、ボクを「盗作作家」と思い込んでいる当時の読者がいるだろうと思うと、三十八年の歳月を経ても未だに胸が痛い。

さて、今日の「盗作騒動」と言えば「上海万博」のPRソングである。この歌、13年前の岡本真夜さんの曲に酷似していることが香港のネットで指摘され、世界中のTVや新聞の話題となった。

中国と言えば、アニメのキャラクターを始めとする「コピー商品」や「海賊版」等々、今更驚きはしないが、国家の威信をかけた大イベントまでが「ニセモノ天国」ではサマになるまい。

上海万博実行委員会は、この国家的事業をそのまま「知らぬ、存ぜぬ」では通すことが出来なくなったのだろう。採った方策は「盗作ではない」と突っ張るでもなく「認めて謝罪」というものでもなく、いきなり真夜さん側に「あの曲を使わせてほしい」と申し出たという。誠に奇妙な方策と言わさるを得ないが、真夜さんは

「万博に協力出来るなんて、とてもすてきなお話で光栄です」

と、応じたという。日本人にとっては胸のすくような対応だった。

この一件に対し、ある新聞のコラムで次のように評していた。

「捕まった万引犯が倍額の金を返すから許してくれ」・・・といってるようなものだと・・・・
「王様」  更新日時:10/05/05
民主主義には王様はいらない。

ただしトランプの四人は残るだろう。

オット、将棋にも二人いるか・・・・。

「髑髏」

美しい女の人を見たら、その下は醜い髑髏である事を忘れるな・・・と諭してくれた御仁がいた。

美しさに翻弄されて自己を見失ってはならない・・・ということだろう。

そうかも知れないが、なんだか寂しすぎる気もする。
「カノヤマ」  更新日時:10/05/13
「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」は小学唱歌の一節である。

ボクは小学生の頃この歌詞を「ウサギはカノヤマという草をオイシイと好んで食べる」と解釈して歌っていた。子どもの頃だから、こんな間違いは誰にでもあるだろう。

村ではその草を「コマガエシ」と呼んでいた。アザミに似たギザギザの葉っぱで、茎をポキンと折るとその切り口から白い乳液が出て来る。成長すると1.5メートルほどに達し、白い菊に似た花を咲かせるが、春の若菜の頃をウサギは好んで食べた。

いや、ウサギばかりではない。「コマガエシ」は漢字すれば「駒返し」で、道端にそれが生えていると、歩いていた馬さえも引き返して食べるほど、草食の家畜には好まれていた。

だが、ボクはその「コマガエシ」という呼び名はボクの村での方言名だと思っていたので唱歌に出て来る「カノヤマ」こそが正しい呼び名だと考えて、堂々と歌ったものである。

しかし、この解釈が間違いであることはやがて知ることになる。・・・とすれば「コマガエシ」の正式名は何だろう。それを確かめたいのはマンガ家になって「みちくさ」にまつわる作品を描いた時のことだ。

正式和名は「アキノノゲシ」だった。バツグンの記憶力と執念深い矢口高雄である。
「辞世の句二題」  更新日時:10/06/01
「辞世」とは、この世に別れを告げることで、「~の句」は死にぎわに残す詩歌などの「言葉」である。死にぎわに、その人の人生観を込めた言葉だけに、実に味わいが深いのでご紹介したい。

まず一題目は「週刊少年マガジン」2代編集長で「巨人の星」や「あしたのジョー」を生み出した故・内田勝さん(2008年5月30日逝去・享年73歳)

癌と言われ 何をそんなに大騒ぎ
癌でなくとも 人は死ぬなり

死後のわれは 原子(アトム)となりて 宇宙(おおぞら)へ
さても気ままに 旅して行かむ

土星の環(わ) アンドロメダにブラックホール
指折り数える 訪問リスト

現物資(クオーク)は 総重量に変りなく
ある時はヒトに ある時は星に

人死ぬと 星になれりと古人言う
万物の原理 ここに在せり

振り出した 戻りて眺むわが生命
北海道の 澄みし星空

二題目は、ボクの友人NHKアナウンサー村上信夫さんのお父様(2008年10月2日逝去・享年84歳)

村上さんのお父さんは、亡くなる10年前の正月、「これから先は毎日息子(村上さん)宛にハガキを一枚出す」と宣言し、その通り実行したという。
ハガキの内容は、幼い頃の思い出や読書感想、世相批判などが綴られていた。

そのハガキも終わりに近づいた頃の文面に「肝に銘ずるべき言葉」が記されていた。
父はこのことを伝えるために毎日ハガキを書き続けたのかもしれない、と村上信夫さんは言う。

人に接する時は 温かい春の心

仕事をする時は 燃える夏の心

考える時は 澄んだ秋の心

自分に向かう時は 厳しい冬の心
「ボダッコ」  更新日時:10/06/12
ボクのおふくろは今年92歳を数える。父が他界したのは平成7年だから、以降は一人で家を寄り、いくばくかの田畑を作って暮らしていたが、寄る年波には抗し切れなかった。

つまり、3年前に大病を患い入院生活を余儀なくされ、退院後はリハビリを兼ねて地元の老人介護施設に一ヶ月ほどお世話になった。・・・が、それを契機に一人では暮らして行けなくなり、現在は上京して娘たちのもとに身を寄せ余生を過ごしている。

そんなおふくろに対し毎日ハガキ一本を書こうと思い立ったのは、介護施設に入所した時の事だ。寂しい思いをしている事だろう。そんな寂しさを少しでも柔らげてやりたい、と言うのが動機だった。

書くに当って、文面に禁句を設けた。「ガンバレ」という言葉を使わないことだった。90を過ぎて何を頑張ればいいのか。むしろ、ゆったりと気ままに過ごして欲しい、という素朴な願いからだった。

だが、『ガンバレ』とか『風邪を引かないように体に気をつけて』などという言葉を使わないで手紙を書く事は、年老いたおふくろが相手だけにかなり難しい事だった。

採った作戦は、まずこちらの日常を平易に伝えることだった。元気でやっているから安心して欲しい、というメッセージだった。しかし、これも毎度そんな内容なら平凡すぎて書く方も飽きてくる。そこで考えたのは「秋田弁講座」。
おふくろもボクも秋田県人だから、双方がわかる共通の方言を持っている。

例えば秋田では塩引き鮭がなぜ「ボダッコ」なのか。一説には鮭の身のいわゆるサーモンピンクが牡丹色に似ているから、と説いた人もいたが、ボクはこの説に与しなかった。サーモンピンクは決して牡丹色では無いからだ。

色々と文献をあさっているうちに、「コレだ!!」という記述に突き当った。
明治の初め頃初代の秋田県知事に就任した御仁が、北海道の松前から塩鮭の大量買入れを思いついたと言う。しかし財政困難の時代で代金が支払えない。

そこで考えついたのは木材資源に恵まれた秋田ならではのホダギだった。
ホダギは囲炉裏にくべたり焚火などにする気の切れ端のこと。
当時の北海道では大量に獲れたニシンを釜茹でにして油を搾り出し、その絞りカスが綿花栽培の肥料として大量に本土に出荷された時代である。

秋田県知事はその釜茹での燃料として大量のホダギを船で送り、帰りには塩鮭を積んで帰る、いわゆる物々交換をしたのだ。つまり、そのホダギから秋田では塩鮭を「ボダッコ」と呼ぶようになった。

と言う「講座」をボクは連日ハガキにしたためて送った。
ハガキに書き切れない時には、FAXで送った。と、おふくろはハガキやFAXが届くのが待ち遠しくて、そろそろ届くだろう時間を見計らっては、ホームの事務所の前で待つようになった、というのである。

この一日一枚のハガキは今日も続いている。おふくろは、この冬も3ヶ月間伊東の娘の家に寄宿したが、その間毎日書いた。寒くて、なかなか春めかない日には童謡の一節を書いた。

春になれば スガこも溶けて

ドジョッコだの フナッコだの

夜が明けたと思うべナ-♪
「タグランケ」  更新日時:10/07/4
これもおふくろ宛に書いたハガキだ。

秋田の方言に「タグランケ」という言葉がある。「バカモン」「愚か者」「マヌケ」と言った意味で、そんな人間や行為をなじる場合に使う。

方言だから、いちいちその語源など詮索する必要も無いだろうが、ボクにはそうはいかない。仮に訛りの激しい東北のズーズー弁だとしても、その言葉が生れた理由があるはずだ。それを調べる時ボクが利用するのは「広辞苑」。これには大抵のことが網羅されている。ただし、いわゆる東北のズーズー弁には独特の濁音が多用されている。だがボクは秋田弁のプロだから、濁音で訛る方式は心得ている。

「タグランケ」は「タクランケ」だろう。また「ンケ」は「~者」となるはずだ。そこでさっそく「タクラ」を引いてみた。あるではないか!!「タクラダ」。漢字に宛てて「田倉田」。

「田倉田」とはジャコウ鹿に似た獣だという。この獣、実に好奇心が旺盛で何にでも興味を示し、獲物を狩ろうとする狩人の前にもひょこひょこ飛び出して来て、いとも簡単に狩られてしまう。

つまり「バカモン」であり「愚か者」であり「マヌケ」というわけである。
「ミステリアス」  更新日時:10/08/03
小説家・村上春樹氏の新刊「IQ84」の発売に、書店は長蛇の列だったという。村上氏は生活の拠点をヨーロッパに置き執筆活動しているが、多作な小説家ではない。

しかし、日本のみならず、世界中にコアな読者を有する大人気作家である。

なぜ村上春樹氏はこんなにも人気があるのか。答えは簡単。作品が優れていて、面白いからだ。

その証拠に外国の文学賞を受賞したり、近年のノーベル文学賞候補と目されている。しかし、村上氏の人気の秘密はそればかりではないようにボクは思う。

氏は、顔写真程度は公表しているが、マスコミにはほとんど露出しない。
私生活は言うに及ばず、取材旅行や執筆時のポートレートなど公表することがない。自作を語ることも、次回作の構想を語ることもない。

つまり、村上春樹という存在そのものがミステリアスなのだ。

物書きはそれでいい。書いた作品そのものが勝頁なわけだから、余計な御託などは一切必要ないし、ご本人もそういうスタンスを貫いているのだろう。しかし、そのミステリアスな存在が逆に作品世界に深みを与え、読者の心を魅了しているのかもしれない。

ボクも、ミステリアスな存在にはある積のあこがれを抱いている。もしボクが、マスコミにも露出せず、創作の秘密も私生活も一切公表しない覆面マンガ家だとしたら、読者はどんな気持ちでボクの作品を読むことだろう。

だが、ボクにはそれが出来ない。ボクの作品世界のほとんどが自分の生い立ちや過去の経験体験と深く関わっているからだ。

第一、このコラムからして根源はそこに発している。
私生活の披瀝に始まり、取材のエピソードや創作の秘密まで細やかに提供している。

これではミステリアスどころか、丸裸の自分を見せているようなものだ。

でも、ボクはそれらの全てを含めたものが「矢口高雄の世界」だと考えている。
そして、それは同時にボクという一マンガ家の、ファンに対するサービス精神以外の何物でもない。
エッセイ集「役立たずのナッコ」刊行に寄せて  更新日時:10/08/24
例えば、同じペットでありながら、犬と猫とでは種類も違うだけに、その機能もまるで違う。犬は番犬に始まり、訓練によっては盲導犬、介護犬、警察犬、麻薬探知犬、被害救済犬等々、人間社会に対する貢献度は極めて高い。

対する猫は何種のことがあろうか。勝手気ままで、飼い主の思い通りにはならないし、餌代だって医療費だってバカにはならない。

かつては「ネズミ退治」という有用な役割を担っていた時代もあったが、ペットとなり果ててからは、ある意味まったくの「役立たず」と言っていい。

わが家の役立たずは「ナッコ」という名のメスの三毛猫だった。



ところが、本年(2010)早々、その「役立たず」との永遠の別れを体験し、イヤと言う程の悲しみ味わった。

この悲しみと虚脱感は一体なんだろう。心の中にポッカリと開いた空洞。
そこをヒューヒューと風が吹きぬけて行くような寂しさはなんだというのだ。単なる「役立たず」が遺した業ではあるまい。あの可愛いばかりの小さな生命体がかもし出す存在感そのものが、実はボクにも家族にも、とてつもない「励み」と「潤い」を与えていたことになりはしまいか・・・・。

この度、その「ナッコ」との出会いから別れまでを綴った「エッセイ」を出版(発売日は9月中旬頃予定)する運びとなった。タイトルは「役立たずのナッコ」。

ボクにしてみれば「ナッコ」に対する懺悔の一念であり、最大限の敬意と感謝を込めたタイトルの積りだったが、妻や娘たちからは猛反対を喰らった。
そこで、妥協案としてサブタイトルに「三毛猫がくれた幸福」を加えることにした。

しかし、こうした「愛猫記」には一般に愛猫のスナップ写真が多く掲載されるケースが多い。
・・・が、ボクはそれを一点も採用しないことに決めた。

ボクはマンガ家である。

その時々の、折にふれて見せてくれた「ナッコ」の表情の数々もエピソードの背景となる情景も、すべてマンガの一コマ一コマとして記憶している。
つまり、そお一コマ一コマをボクの得意なイラスト(マンガ)として描き下ろした。

だから、マンガで綴ったエッセイ集としてお読みいただきたい。
乞御期待・・・・・!!
十二年余の遠回り  更新日時:10/08/24
水木しげるの貸本マンガ家時代の赤貧振りが茶の間の話題を呼んで、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が大人気である。

「貸本」は、戦後日本が生み出した実にユニークな文化である。敗戦で打ちひしがれた日本。本は読みたいけれど、買うほどのゆとりもない。そんな時代に編み出されたのが、借りて読む「貸本屋」の登場だった。

貸本には、もちろん小説や講談本もあったが、人気の主力は「マンガ」で、
多くの貸本専門のマンガ家の誕生を促し、昭和三十年代にはどんな田舎町でも2~3軒の貸本屋があった。

やがて時代の「テレビ時代」へと移り、茶の間の中心がテレビに席巻されていくと、貸本文化は急速に衰退し、昭和四十年代に入ると貸本屋の廃業が相次いだ。

水木しげるは、そんな葉境期の貸本マンガを支えた一人だったが、業界の衰退がそのまま水木家の家計を圧迫し、赤貧の泥沼にあえいでいた。

そんな水木しげるに幸運の女神がほほえんだのは、昭和四十年に別冊少年マガジンに発表した「テレビくん」という一本の読み切り作品だった。
水木しげるは、この一本で「講談社児童漫画賞」を受賞し、赤貧の泥沼から這い出すことになる。

ボクが水木先生と初めてお会いしたのは、昭和四十三年の夏だった。・・・が、この頃には「ゲゲゲの鬼太郎」の大ヒットで押しも押されぬ人気マンガ家になっていた。水木先生は、この年のボクの訪問を後に「コミック・昭和史」のなかで描いている。それによれば、二十七才のボクが郷里秋田の銀行を辞め「アシスタントにしてほしい」と、決死の覚悟で水木プロを訪問したことになっている。

しかし、これは水木先生の記憶違いで、ボクの訪問目的は、自分の作品を見てもらうためだった。もちろんマンガ家になる夢は子供の頃より抱いた大き夢ではあったが、年齢的にそれは「はかない夢」とあきらめつつあった。

ただ、銀行勤めをしながら、なかなかあきらめ切れない「少年の日の夢」を、一目見てもらいたい一心での訪問だった。

ボクが銀行を辞し、マンガ家への転身を決断するのは、その二年後の昭和四十五年である。・・・が、決断の裏には水木プロ訪問が心の支えとなり、自信を深めたことが大きい。わずか三十分程度の対面時間だったが、水木先生の咬んで含めるようなアドバイスをいただかなかったならば、矢口高雄の誕生はなかったと断言してもいい。

水木先生は大正11年生まれだから、この年四十五歳でボクより十八歳も年上だった。だが年令の差こそあれ、赤貧にあえぎ、その泥沼から這い上がった水木先生と、銀行員をしながら夢を追い続けたボクのアマチュア時代とが、不思議にピタリと重なり合っている。

ボクは高校卒業後十二年余の銀行員生活を経てマンガ家に転身するのだが、今にして思えばその十二年余の銀行員生活は、ボクにとって実にラッキーな意味を持つ歳月だった。

つまり、遠回りをしたごとき十二年余ではあったが、ボクが上京した昭和四十五年には、貸本文化が全く廃れていたことだ。だから、ボクは実に幸運なことに貸本時代の憂き目全く知らないまま、メジャー誌より堂々のデビューを飾る結果となった。

もしボクが、十二年余の遠回りをせずに上京していたならば、貸本マンガ家として赤貧にあえいでいたかも知れないし、矢口高雄も誕生していなかったかも知れない。
「マンガ家生活40年を振り返って」  更新日時:10/10/14
10月9日(土)、秋田県横手市のホテルで、ボクの「マンガ家生活40周年」の祝賀会が、約200名余の出席を得て行われました。



なにしろ30才で銀行を辞し、異例に遅いデビューを飾ったボクでした。
それだけに、無我夢中で駆け抜けた40年でしたので、「あっ」という間だった気も致します。



幸いにも、デビュー3年目で「釣りキチ三平」の大ヒットに恵まれ、どうにかマンガ家の末席に就くことが出来ましたことが、実にラッキーなスタートだったと感謝しております。

とは言え、「釣りキチ三平」のヒットは予想外のものであり、もちろんうれしい限りではありましたが、半面ボクを苦しめました。つまり、30才で意を決してマンガ家に転身してみたものの、その時点で「これだけは描き遺したい」と願っていたテーマがあったからです。

そのチャンスは、丸10年の連載を終えた。いわゆる昭和版の「釣りキチ三平」の段落によって巡って来ました。

時に44才。もう残り時間もそんなに多くはありません。だから、この頃のボクはある意味一番必死でした。「おらが村」「新おらが村」「オーイ!!やまびこ」「蛍雪時代」、そして「9で割れ!!」

この一連のテーマこそがボクのライフワークと位置づけていましたので、何が何でも描き遺して置かなければならない作品でした。その意味では「我がマンガ人生に悔いなし」と言っても過言ではありません。

余禄と言っては失礼かもしれませんが、「奥の細道」や「激涛M7.7」、「野性伝説」も後半の作品としては意義深いものを感じます。

そして、ファンの熱烈なアンコールもあって平成版「釣りキチ三平」を描くに至った経緯も、「矢口高雄」という一人のマンガ家の昇華に向うプロセスとしては、自分で言うのもおこがましい限りだが「なかなかのもんだ」と思っています。

ただ、今後は年齢的に見て、必ずしもファンの皆さんの要望に十分お応えすることが出来ないかもしれません。でも、体力、気力の続く限り邁進する覚悟です。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
「追っかけ」  更新日時:10/12/07
芸能界に通称「追っかけ」と呼ばれる人達がいる。自分の好きな歌手やタレントのコンサートやイヴェントが行われる度に、まるで追いかけるように押し寄せる熱狂的なファンである。

今年八月シンポジュームがあって大分県の臼杵市を訪れた時のことだった。
ところが、その土曜日と日曜日の二日間、大分アリーナでEXILEのコンサートがあり、市内と別府のホテルの大半が全国からの追っかけでほとんど占拠されていて、すさまじいばかりだった。

その意味ではボクも「追っかけ」の一人だろう。井上陽水の大ファンで、全国どこへとまではいかないが東京と横浜でコンサートがあれば欠かしたことがない。それも35年間だから、もう筋金入りの「追っかけ」である。

ところでボクは歌手でもタレントでもないが、マンガ家といういわゆる人気稼業ということもあってか、ボクにもかなりの「追っかけ」と称する御仁達がいる。
最初はボクの作品世界が好きで、単行本を集めることから始まったのだろう。
やがてグッズ蒐集に凝り出し、サイン会に押し寄せる様になり、その輪が広まって行ったに違いない。

初めは気付かなかった。しかし、原画展やサイン会を行う度毎に、どこか見覚えのある顔に出会う。
その顔が定宿にしている温泉旅館のロビーにもあり、お風呂に入って体でも洗おうと思って洗い場の椅子に座ったとたん、そのなかのリーダーとおぼしき一人が「センセイ、お背中を洗いましょうか」と来た。

今日ではインターネットの時代だから、ボクの行うイヴェントは、知ろうと思えば誰でも調べられる時代だ。
つまり彼等は、おそらくネットでチェックして追っかけていたのだろう。
既に旅館やホテルまでもチェックし、先回りして同宿さえも企画していた。

当然その夜はその一団を混えての会食となり、「追っかけ」の存在を知ることになったのだが、うれしさと同時に、不思議な人種のいることに驚きを隠せなかった。

こうしたふれあいを重ねるなかで、ボクの「追っかけ」には芸能界のそれとは一線を画すルールがあることに気付いた。
それは、実に紳士的であり、決して出しゃばらないことだった。

通常のファンならば、我先にと競い殺到し、サインや握手を求めたりするが、彼等は決してそれをしなかった。
サイン会の整理券はイの一番に並んで確保はするが、サインの順番は最後尾に立ち、むしろ達巻きにボクを擁護する暖かいまなざしで見守り、もし不穏な事態が生ずれば身をもって制そうとする、親衛隊のような気配りを見せた。

こんな歳月が何年流れたことだろう。増田まんが美術館がオープンして、今年が十五周年だからそれに匹敵する歳月だろう。もちろんその後に加わったメンバーもいる。
こんな仕事をしているわけだから、ファンあってのわが身であることは常々肝に銘じているボクではあるが、有難い存在である。

最後に超A級の「追っかけ」を紹介しよう。長野県在住の徳永広幸氏御夫妻であるが、この二人の今年一年間の追っかけ振りは半端なものではない。

5月5日 増田まんが美術館  サイン会
7月18日 宮城県登米市 石ノ森章太郎ふるさと記念館 シンポ&サイン会
7月25日 新宿コニカミノルタ サイン会
8月7日 名古屋三越 矢口高雄の世界版画展 サイン会
8月8日 釣りキチ三平クラブ鮎釣り大会
8月29日 大分県臼杵市 防災シンポジューム&サイン会
9月27日 銀座画廊「小島剛夕・上村一夫・矢口高雄三人展」 サイン会
10月1日 秋田由利高原鉄道創業25周年記念講演&サイン会
10月2日 増田まんが美術館「矢口高雄画業40周年記念展」 テープカット
10月9日 秋田県横手市「矢口高雄画業40周年」祝賀会&サイン会
10月17日 所沢西武「アートカフェ展」&サイン会
11月13日 秋田・阿仁小中学校講演
11月14日 増田まんが美術館「矢口高雄画業40周年」サイン会
11月20日 石ノ森章太郎記念館「原孝夫展」 トーク&サイン会

以上14回にわたる「追っかけ」だった。ここまでくれば、徳永氏御夫妻の執念もさることながら、ボクはまるで「矢口教」の教祖様になったような気分で、あきれ返るしかない。
「クニマス」発見に寄せて  更新日時:10/12/16
「クニマス」発見のニュースに、ボクのホームページには書き込みが殺到しています。

平成版「釣りキチ三平」の第一話として「地底湖のキノシリマス」を描いたのは十年前の2000年でした。

もちろんドラマに登場する「キノシリマス」は、ボクの郷里秋田県の田沢湖にかつて生息していた「クニマス」のことで、ボクが物心のついた頃には既に絶滅した魚でしたが、その絶滅に至るプロセスがあまりにも愚かな経緯をたどったものだっただけに、いつか「三平」のドラマにと目論んでいたテーマでした。

その意味では、平成版(パーソナルマガジン)の再開を飾るにふさわしいテーマでしたし、満を持して放った改心の一作となりました。
ただし、ドラマに着手した時のボクのスタンスは「キノシリマスは既にこの世にない、絶滅した固有種」として描くこと、でした。つまり、この様な愚考は二度と繰り返してはならないという
メッセージを全頁に込めよう、と心の中で何度もつぶやき、描き進めました。

しかし、ボク自信のスタンスは確かにそうでしたが、もう一人のボクがいました。
夢と希望を持ち続けたいマンガ家の習性とでも申しましょうか。

結果、油汗を絞り出しながら考えたアイデアが地図にも載っていない地底湖であり、その湖底を泳ぐ失われたはずの「クニマス」の群れでした。

つまり、「地底湖のキノシリマス」の一論は、このシーンを描きたいがためのフィクションでしたし、人間の愚かさをデフォルメするための渾心の一シーンだったのです。

それが、富士五湖の一つ山梨県の西湖で発見されたというニュースです。驚きました。
ボクは思わず叫んでいました。
「まるでボクのマンガじゃないか・・・・!!」
そうです。ボクの「三平」のドラマが現実となったのです。
この感慨は「うれしい」などと言う通り一ペンの言葉では語り尽くせないものがありました。

そんな気持ちをブログに綴ろうと書斎の机に座ったとたん、卓上のデンワが鳴り始めました。
NHKテレビを始めとする新聞各社よりインタビュー攻めでした。

年の瀬に至って、こんな明るいニュースに恵まれようとは、思っていませんでした。
この際是非「地底湖のキノシリマス」をもう一度お読みいただきたい。
きっと発表時とは違う感動が得られるでしょう。

たくさんの書き込みありがとうございました。