矢口高雄の独り言 2011

「新春に寄せて」  更新日時:11/01/01
明けましておめでとうございます。

昨年末の「クニマス発見」のニュースは、暗い世相に一石を投じたような実に明るくホットなニュースでした。2001年に「地底湖のキノシリマス」を発表したボクにとっては、「マンガが地で行ってる・・・!!」と、思わず狂喜するほど衝撃的な発見でした。

そんな関係もあって、直後の三日間はテレビ(NHK・フジ・日テレ)や新聞各社の取材が相次ぎ、ボクのホームページへの書き込みもこれまで類を見ない件数にのぼりました。

キノシリマス(クニマス)のドラマは、70年前(1940年)に秋田県の田沢湖に起こった愚かな歴史的絶滅記にテーマを取った作品でした。しかし、なにしろ戦前の富国強兵の時代であり、秋田の片田舎の出来事だっただけに、歳月の流れるなかで地元の人さえ忘れ去られる程にしぼんだ悲劇でした。

「地底湖のキノシリマス」は、そこにスポットライトを当てて十年前の2001年に描いたドラマでした。
つまり、少し口はばったい言い方かも知れませんが、埋もれていた片田舎の過去のあやまちを、ボクのペンで全国に向けて発信したドラマでした。

発表と同時に大きな反響がありましたが、おそらく読者の皆さんの心に大きく響いたのでしょう。
と同時に、片田舎に埋もれていた過去の悲劇が全国的に認知される結果となったはずです。
その意味でも、昨年末の発見に至るプロセスに、ボクの作品がいくばくかの役割りを果たしたのではないかと思っています。

書き込みのブログを精査してみると、まずは「おめでとう」であり、マンガを地で行く発見にボクの「創造力」を賞賛するものが相次ぎました。なかでも熱かったのは、発見後の「続編」を期待する事でした。

もちろん、そうした期待と要望はボクの心を大きくゆさぶるものでした。
しかし、新年に当りボクの胸中には「続編」への意欲がなかなか湧き上がって来ないことを告白しなければなりません。

それは、発見後の後日談のドラマ化という視点で考えたとき、どれほどの展開が望めるだろうかという事です。
失われたはずの絶滅種が奇跡的に発見された・・・という厳粛なる事実の前に、今後の私達に果せられた命題は、過去の愚行を繰り返してはならないという反省と、今後それをどのように保護し維持して行くか・・・という点にしかありません。

マンガの作品に限らず、ドラマの根底を支えるのは「謎」です。
謎が謎を呼び、会話が反発しあって進む。だから読者は、その謎を解き明かそうと読むのです。
クニマスの発見という事実は、その謎が解消されてしまったということを意味しています。

また、仮に続編を描いたとしても、読者のなかには自流や話題に便乗したスピンオフと捉える方もいるかも知れません。
いずれにせよ現在のボクは、描く前から「ネタバレ」しているドラマには、ほとんど魅力を感じないと言うのが本音です。従って「続編」の件は、クニマスの今後の推移を冷静に見守って行きたい、と言うことになります。

そんな折りも折りの昨年末の天皇誕生日(12月23日)に陛下のお言葉として、
クニマスを「奇跡の魚」としてその発見を喜び、関係者の貢献を讃えられました。
この陛下のお言葉はクニマスの今後に大きな意味を持つものとボクは考えています。
つまり、陛下に讃えられたことにより、クニマスは日本の環境問題の象徴として、国家的見地で保護対策が採られることになるでしょう。

ボクもそれを切望するものです。
「追っかけの距離」  更新日時:11/02/01
コメディアンの間寛平さんがマラソンによる「地球一周」に挑んで、つい先日悲願のゴールを果たした。

寛平さんの行為は人類(日本人)にとってどんな意義をもたらすものかは、ボクにはわからない。しかし、多くの苦難を乗り越え、たった2本の足でひたすら目標に向って走り抜いたということは、単に意義などという物指しでは測ることの出来ないものだろう。

地球一周は距離にして約4万kmだという。だが、これは赤道を直線に換算したアバウトな数字であって、地球には広大な海があり、陸地には山も谷もある。

つまり、一直線に走れる道など、ほとんど無いに等しい。そんなところを工夫に工夫を重ねてコースを決め走り抜いたわけだから、ある意味人間の忍耐力の極限に挑んだ挑戦と称讃しても過言ではあるまい。すごい快挙の一語に尽きる。

ところで、ボクは昨年この「独り言」の欄に「追っかけ」なる一文をアップした。長野県在住の、ボクの超A級の追っかけ徳永広幸氏ご夫妻の「追っかけ振り」を紹介した。もちろん徳永夫妻の追っかけはマイカーを使用してのものだったが、その熱心さと回数の多さに、ただただ脱帽する以外はなかった。

アップし終えてほどなく、ひとつの疑問がわいた。その走行距離は何kmにのぼるのだろう。少なくとも、一回の追っかけを考えこみても、自宅を出て目的地に着き、ボクと少しの行動を共にして再び自宅へと帰るわけだから、往復の走行距離はかなりのものになるだろう。

そんな疑問をハガキに書いて送った。追っかけに要した「往復の距離」についてである。とにかく徳永氏とは長い付き合いである。全てにおいて実に几帳面な御仁だから、自動車の走行距離も入念にチェックされてるだろうと考えたからだ。

案の定だった。返信はそれほど間を置くこともなく、12月13日に届いた。

一覧表に仕立てられており、一見するやその几帳面さに更に驚いた。5月5日の「増田町まんが美術館サイン会」に始まり、11月20日の「石ノ森ふるさと記念館トーク&サイン会」までの合計12回の追っかけで、要した「往復の走行距離」は14462kmだったという。手紙の末尾に言葉が添えられていた。

「それにしても一年間で14,500kmとは、我ながらよく走ったと感心しています。ちなみに地球一周は約4万kmだそうですが、もしかしたら私達は既に矢口先生を「追っかけして」、地球二週目に突入しているのではないでしょうか(笑)。それでは次回お会いする時まで、先生におかれましては、くれぐれも
お体をお大事にしていただき、ご活躍されますことを心よりお祈りいたします」

ファンはマンガ家にとって神様以上にありがたい存在である。
「2011台北BOOK Fair」に寄せて  更新日時:11/02/17
社団法人「台北書展金会」の招聘により「2011台北BOOK Fair」(2/8~11)に行って来た。

この「BOOK Fair」は台湾国のバックアップによって行われる国際的書展で、
貴賓は各国から招待されていた。私はマンガ家として日本からただ一人の招待となったが、「釣りマンガ」という草分け的な新ジャンルを拓いた作者として招待を受けたものだった。

国際図書展だから、ブースはマンガだけとは限らない。一般書籍や、絵本部門、学術書や実勢所などの4つの展示場に分かれての開催だった。しかし、観客はのお目当てブースは何と言ってもマンガ展だった。

私にとっての訪台はこれが6度目だが、台湾のマンガ熱は相当らずすごい。9日10時がオープンだったが、会場にかけつけた時には既に黒山の人だかり。いずれも若い男女のファンたちで、その割り合いは、7:3で女性のパワーが圧倒していて、地元紙のこの日のマンガ展に押し寄せた人の数は65000人と大見出して報じていた。



そんななかで4時から私のサイン会(抽選による100名限定)が、行われたが、
熱烈歓迎の声が飛び交い、思わずサインペンに力が入った。

ただ毎度思うことだが、台湾の若いマンガ家たちの作品傾向は、日本のアキバ系絵柄の模倣が目立つ。ほとんどがそれと言っても過言ではない。原因は台湾のマンガ出版事情にある。読者が手にする作品の大半が日本マンガの翻訳版に頼っているという事実だ。日本マガは面白いから出版社はこぞって翻訳版を出版することになり、結果売れてもうかる。

しかし、これでは自国のオリジナリティな作家作品は育つまい。
そこに大きな矛盾をかかえているのが台湾マンガの実情である。

日本マンガを愛読することは悪いことではない。すべての芸術は模倣に始まるという言葉もある。しかし大半が日本マンガの翻訳版というのはいかがなものだろう。半分は日本マンガの力を借りたとしても、残り半分で自国のマンガ家を育てる必要があるだろう。そのためには出版社の努力も必要だし、なかんずく読者の支えなくしては為し得ない。

早い話読者は自国のマンガ作品を買って読むことだ。そうすればその原稿料や印税は自国のマンガ家の懐をうるおし、次の作品を生み出す力となる。こうした支えがない限り自国のマンガ家は育たない。

そんなことをつくづく感じた訪台の旅だった。
「国際漫画受賞」に寄せて  更新日時:11/02/25
2月23日、外務省飯倉別館にて「国際漫画賞」の授賞式が行われた。

この賞はマンガ好きな有名な麻生太郎元首相が外務大臣だった頃に設けられた賞で、マンガ大国日本が諸外国のマンガ作品に対して与えられるもので、今回が4回目。



ボクは2回目よりその審査委員に委嘱され授賞式に参加した。

今回の受賞者は、最優秀賞に中国のシャオ・バイさん

優秀賞にフランスの、オリビア・マーティンさん

スペインのエンリクォ・フェルナンデスさん

タイの、ベラチャイ・ドワングパルさん

賞に実行委員長の外務大臣・前原誠司よりそれぞれに手渡された。

授賞式後、受賞者を囲んでお祝いのレセプションが前原大臣の乾杯の発声で行われたが、写真のツーショットはその席のもの。



乾杯を終えた前原大臣がまっ先にボクにかけ寄り、「釣りキチ三平ですネ!!」と満面の笑みで握手。

49歳の前原大臣はリアルタイムで「三平」を読んでいたと言う。

うれしいひとときだった。
「あんちょこ」  更新日時:11/03/06
ボクの中学時代は貧しい時代だったので持っている人はほとんどいなかったが、高校時代になると「あんちょこ」が大流行した。

「あんちょこ」を広辞苑で引いてみると

- 「安直」の訛りで、教科書の安易な学習書。虎の巻 - とある。

赤点スレスレで、一夜漬けを迫られた生徒の必携の書とでもいうべきものだった。

当時の秋田の片田舎のボクらには「あんちょこ」の呼び名はなく、もっぱら虎の巻を略して「トラ」と呼んでいたが、新潟、福島、群馬、長野あたりでは「のめし」と呼んでいたことが最近の新聞(よみうり寸評)で知った。「のめし」とは、それらの地方の方言でなまけることを意味し、なまける人のことを「のめしこき」と言うらしい。つまり、なまけもので、出来のよくない生徒が愛用していたわけで、それを使うことは恥ずべき行為ではあり、カバンの奥底にひそやかに忍ばせては置くが、人前で公然と聞くことははばかられた書であった。

時代が変わりインターネットやケータイの時代となり、「あんちょこ」が「知恵袋」と名前を変えたのだろうか。確かにケータイを自在にあやつれる若者たちにとっては安直であり便利ではある。しかし、投稿する側もそれに回答する側も、お互いの顔が見えないだけに、かつての恥ずべき行為といううしろめたさが無くなっているのだろう。

試験におけるカンニング行為は愚かで、姑息で、狡猾な行為であることは、誰しもが認めることだろうが、この世から絶えることはないだろう。ましてや便利なツールが開発されればその手口も新手が考え出されるのは必然の理である。

「知恵袋」を駆使して新手のカンニング法を実行し逮捕された十九歳の予備校生を肯定する積りも、弁護する積りも僕にはまったく無いが、かといってそれを指弾する指先には、なぜか力の入らない自分がいる。

アナログ人間のボクとしては「そんなことをするヒマがあったら、もっと自分の頭を使って勉強しろ!!」と言いたいところだが、これも説得力に欠ける気がする。

つまり、ボクらは好むと好まざるにかかわらず、そんな時代に生きている、ということになるだろう。
「東北関東大震災」に寄せて  更新日時:11/03/19




この度の末曽有の激震により、命を落とされた多くの方々に深い哀悼を表すと共に、被災された東北、関東地方の皆さんに心よりお見舞申し上げます。

矢口高雄
「想定外」  更新日時:11/04/11
あの忌まわしい3月11日の大震災から、今日で一ヶ月が過ぎた。

その間ボクはこの「独り言」を一度も更新していない。書きたいことは沢山あったが、刻々と変わる惨状を見つめるだけで精一杯だった。

地震だけならまだしも、続いて起こった大津波によ被害は未曾有のもので、多くの人命を巻き込み、数知れぬ行方不明者が続出した。加えて重大なのは原発事故である。

テレビや新聞に登場した政府関係者や学者たちは、この未曾有の惨事を口を揃えるかのように「想定外」と評した。

「想定」を広辞苑で引いてみると

- ある一定の状況や条件を仮に想い描くこと -

とある。

つまり「想定外」とは

- 人間が仮描いた想いをはるかに超えて起こった -

ということであり、予想外のことだったということになる。

もともと人間の立てる「想定」や「予想」は、過去のデータに基づいている。
過去のデータから推測して、これ以上は怒るはずがないとの仮定から導き出した「経験値」とも言えるわけで、
起こらないという保証はどこにもない。

3月30日の新聞のコラムだったと記憶するが、実に含蓄に富んだ一文が掲載されたので、それを紹介しよう。

「起こるはずがないと思いたい災難の多くは、起こり得ないのではなく、
起こるまでに時間がかかるだけのことである」

J・チャイルズ著「最悪の事故が起きるまで人は何をしてきたのか」より・・・・

人間が立てた「想定」には、それが起こるまでの時間が想定されていなかった・・・ということになるだろう。
「大震災と奥の細道」  更新日時:11/05/23
俳聖・松尾芭蕉が奥の細道の旅に出発したのは元禄2年(1689年)の陰暦3月27日である。今日の太陽暦に換算すると5月のなかば頃と考えていいだろう。

「風流の初めや奥の田植えうた」

この句は福島県の白河越えをしたあたりでしたためた句と言われているから、
奥の細道に踏み込んだ頃は田植えどきだったことが分かる。

芭蕉はその足でその後福島、仙台、塩釜、松島、石巻へと進み、岩手県の平泉(中尊寺)に至るのだが、今日ではそのどこもが大震災の被災地である。つまり芭蕉が今日同じ道を歩いたならば、どんな句を詠むだろう。およそ風流とは縁遠いガレキの山と、田植えも出来ない奥の細道である。

芭蕉の風雅の境地が今日の細道の惨状をどう表現するのが見てみたい気もしなくはないが、おそらく「3.11」の大震災がその時代に起きていたなら、まず奥の細道紀行は中止され、後世にの遺る数々の名句もまた詠まれることはなかっただろう。だが俳聖のことだから、もしかしたら道程を変更しても強行したかも知れない。そう考えると、「奥の細道」は全く別の意味を持つ著作になっただろう。ただし芭蕉の時代には原発はなかったので、放射線のベクレルの恐怖にさらされる旅にはならなかったことは確かである。

ついでに言えば、芭蕉の奥の細道の最北の訪問地は秋田県の象潟である。当時の象潟はその名が示す通り、東西1.5km、南北5km余に及ぶ広大な潟湖を有する地で、潟湖には九十九島と呼ばれる大小の島々が浮び、松島とならび称される絶景の地でもあった。

「きさかたや雨に西施が合歓のはな」

芭蕉が詠んだ象潟の名句である。

その芭蕉からおよそ100年後に、江戸時代後期の名横綱雷田為右衛門が地方巡業で象潟を訪れている。しかし雷田が見た光景は、松島に必敵する絶景の潟湖が見るも無残な陸地と化した姿だった。文化元年6月(1804年)の大震災で湖底が1.8Mも隆起していたという。

象浮は今日では町村合併で「にかほ市」となっているが、隆起した湖底は広々とした田ンボになり、そのなかに点在する岩山がかつての絶景をしのばせている。
かすんでしまった「クニマス」  更新日時:11/05/24
「クニマス発見」が衝撃的ニュースとして日本中を駆け巡ったのは昨年末のことである。しかし「3.11」の大震災の前にその話題もすっかりかすんでしまった感がある。

そんななかで、山梨県の民放テレビが「クニマス」の特集番組を企画し、ボクのコメントが欲しいと録画インタヴューにやって来たのは、もう一ヶ月前のことだ。

「クニマス」はボクの郷里秋田県の田沢湖にのみ生息する固有のマスだったが、70年前に絶滅したと思われていた。それが、昨年末降ってわいたように山梨県の西湖で発見されたわけで、「今後の対応を考えよう・・・・・」というのが番組企画の意図だった。

つまり「クニマス」は、もしかしたら天然記念物に指定されるかもしれない貴重な魚である。
そんな魚を突如抱え込んでしまった形だから、山梨県としては今後の様々な対応に迫られることが予測される。棲息が確認された西湖には漁業協同組合があり、毎年ヒメマスの放流事業を行っているし、それを釣ることを楽しみにしている釣り人に人気の湖である。もし天然記念物に指定されたら、禁漁ということになりかねない。そうなったら漁協も困惑するだろうし、釣り人にも厳しい規制が果せられるだろう。インタヴューの論点はそこに絞られたものだった。

ボクは答えに窮した。

・・・と、その時耳元で三平くんの声が聞こえたような気がした。そうだ、三平くんならこんな時何と言うだろう。ボクはいつの間にか三平くんになっていた。

「なんにもしなくていい」

「そのまんまでいいんじゃないかなァ・・・」

西湖にはクニマスの発芽卵が移植されたのは75年前のことである。もちろん当初は食用魚としての繁殖をめざしたものには違いなかった。・・・が、当時の移植技術がその程度のものだったかはさて置くとして、歳月が流れるなかで
繁殖が確認されることもなく、いつしか忘れた存在になって行ったのだろう。

言葉を換えて言えば、何の保護も、人でも加えることなく、放って置かれた。
それなのに70年もの間西湖で人知れず種をつむぎ、生き続けてきた魚である。
これは奇跡的なことであり、事実である。

かつて田沢湖ではそれ専門の漁師が大勢いて、年間7万匹も水揚げされ、人々の食用に供されていたという記録がある。漁師たちの漁法は丈の長い、深場を探る刺し網漁だった。水深日本一を誇る田沢湖に棲むクニマスの泳層は、他の魚とは比べものにならないほどの深さだったらしく、その泳層に届く竹の長い網を用いた独特の漁法だったという。

西湖で起こった奇跡はその泳層を山梨県の人々は知らなかったことだろう。ましてやその漁法も秋田の片田舎の独得のものだったため、西湖に伝えられることがなかったことだろう。これは「クニマス」にとっては実に幸運と言わざるを得ない。

三平を気取りインタヴューに応えていたボクだったが、ふと我に返ったと奇妙な胸騒ぎを覚えた。クニマスの存在が確認された今、まずはその生態調査が急がれるだろう。結果その習性や泳層が明らかにされると、人間は同時にその捕獲方法も考えるだろう。なかでも釣り人は英智の限りを尽くして釣り方や仕掛けを考案するだろう。これら諸々のことに鑑み、山梨県と西湖漁協はとりあえずクニマスが最も多く生息していると目される湖域の一部を禁漁区にすることを検討しているという。懸命な策である。

健全なヒメマス釣りを楽しむ一方で「クニマス」という貴重な資源を保護し、
共存しようという姿勢は、今後の西湖には必要な事である。

最後に、いつの日か本家の田沢湖に里帰りする日を祈るばかりである。
「日本人の場合」  更新日時:11/05/25
国際通貨基金(IMF)の専務理事だったフランス人のドミニク・ストロスカーン(62歳)が、アメリカのホテルで接客係の女性に性的暴力をはたらいたとして、当局に逮捕され失脚した。サルコジ大統領の有力な対抗馬として、次期フランス大統領の呼び声が高かった人物の転落である。

この醜聞を受けて書かれた新聞のコラムがあまりにおかしかったので、その日の日記にメモしておいた。不覚にも新聞名を書き忘れていたため、それを記せなくて申し訳ないが、とにかくそのメモを紹介しよう。

無人島ジョークだった。マンガには孤島マンガというジャンルがあるが、それを想像していただきたい。設定はこうだ。もし絶海の無人島に二人の男性と、一人の女性が孤立状態になったとしたら・・・である。

○アメリカ人の場合
女が一方の男と結婚し、離婚した後もう一人と結婚する。

○ドイツ人の場合
一組の男女が結婚し、残った男が戸籍係となる。

○スペイン人の場合
男二人が決闘し、勝者が女に求婚する。

○フランス人の場合
男女一組が結婚し、もう一人の男が女と不倫をする。

○日本人の場合
どうしたものか判断出来ず、本社にデンワで指示を仰ぐ。

新聞のコラムを丸写ししたようなものをブログに載せるのは、著作権の侵害に当る行為ではないかと不安に思うが、あまりに鋭いジョークにハラワタがよじれるほど笑い転げてしまったので、かくのごとくに掲載させていただいた。コラムの執筆者にはご寛容のほどをお願い申し上げる。アメリカ人の結婚と離婚は、ハリウッドスターが繰り返す日常茶飯事に象徴される。ドイツ人の戸籍係は堅実な秩序を重んじる国民性の表れか。スペイン人の決闘は、闘牛に歓喜し、情熱なフラメンコのリズムに乗って踊るカルメンを想起させる。フランス人のそれは、男女のスキャンダルに鷹揚なお国柄もあろうが、まさにIMFのドミニク・ストロスカーンを皮肉っていて秀逸だ。

しかし、最も傑作なのは「日本人の場合」である。原発事故という最悪な国難にもかかわらず、その判断力の曖昧さとスピード感の欠如はまさにそれだ。マニュアルがなければ何一つ判断出来ない。ひたすら責任を回避し、お上の支持なしには動こうとしない小役人体質そのものである。

もっとも、絶海の無人島に孤立した人間がどうやってデンワで伺いを立てることが出来るのかは疑問に残る。ケータイ電話全盛の昨今ではあるが、大震災時には多くが機能しなかった。かりに通じた場合でも、まず救助を求めるのが先決だろう。

オット・・・興冷めするようなことを言ってしまった。これはあくまでもジョークの世界である。ジョークに難くせをつけたり、細かな詮索を加えること事態がナンセンスと言わざるを得ない。
消えた「やなさって」  更新日時:11/06/28
「あした」-「あさって」-「しあさって」

皆さんは日数をかぞえるとき、きっとこんな順番でかぞえているだろう。これを漢字で表記すれば、「明日」-「明後日」-「明明後日」となる。

しかし、ボクの子供の頃の秋田の村ではこの順番ではなかった。「あした」-「あさって」-「やなさって」と「しあさって」の間に「やなさって」が入っていた。村人たちが日常的にこの順番でコミュニケーションをとっていたわけで、ボクも疑うことなく使い、暮らして来た。

ところが、上京した東京の地には「やなさって」と呼ぶ習慣がないことを知って驚いた。今から四十年も前のことだ。秋田にはいわゆる東北のズーズー弁の地方である。だから「やなさって」は何かの語源が訛り、方言化したのではないかと考え、試しに広辞苑を引いてみた。

あった。「やのあさって」!!。

「やのあさって」は「弥の明後日」で、明後日の次の日とあるではないか。「弥」は弥生(三月)の弥で数字に置き替えれば「三日目の明日」となるだろう。・・・となると「しあさって」の「し」は「四日目の明日」と解釈できるわけで、ボクの村での日数のかぞえ方はピタリと符号することになる。

しかし、今日では東京ばかりではなく、ボクの村でも三十代以下の人たちの間からは「やなさって」の呼び方は消え、「しあさって」になっていると言う。
どんな理由で「やのあさって」が消えてしまったのだろう。

まあ、言葉や呼び方は時代の流れのなかで淘汰され、新語造語がいつの間にか
定着してしまう例は珍しくないわけだが・・・・・・・。