矢口高雄の独り言 2003

チャンピオン増岡浩さんと対談 更新日時:2003/04/07


ボクは、20年ほど前に自動車の免許を取得しましたが 以来今日まで無事故無違反を誇る優秀ドライバーです。しかし それもその筈です。未だに運転に自信が無く、だから「 仕事は電車、遊びはタクシー 」をモットーにしてますから 要するに事故も違反も起こしようが無いというワケです。

そんなボクが先日( 3/29 )、パリ・ダカール・ラリーで2連覇を達成した
ラリー・ドライバーのチャンピオン・増岡 浩さんと対談しました。
この対談は「 釣りキチ三平/CLASSIC 」( 5/20より月2回刊 )の創刊を
記念して企画されたもので その模様は創刊号から2回に渡って掲載されますので、ご覧ください。

とにかく車の好きではない人間とチャンピオン・ドライバーとの対談でしたから咬み合わないところもありましたが ボクにとっては結構新鮮な一時でした。例えば、それまでボクは車のレースというものに素朴な疑問を一つ抱いていました。F1レースですが 何故アイルトン・セナがあれ程までに優勝を重ね得たのか・・・・・という疑問でした。つまりボクは、ドライバーのテクニックよりも車の性能が劣っているのでは・・・と考えたのです。その劣っている性能をドライバーのテクニックでカヴァーしているというのならセナの優勝も理解出来るのです。

増岡さんは、そこをズバリと答えてくれました。

『人間のテクニックに応えられる車は未だ造られていません。テクニックの全てを傾注したら車はたちまち悲鳴を上げてしまいます。その悲鳴を上げさせないように、騙しながら運転しているのです。もし我が社で、悲鳴を上げない車が開発されたなら これは自動車の革命でしょう。とにかく、そんな事を夢見ながら車の開発に当たっていますがパリ・ダカの連覇を5に伸ばそうと頑張っています。』

と 自信の程を覗かせていました。
矛盾・・・・・ 更新日時:2003/04/25


腰にかかえたバクダンを鎮めようと せっせとプールに通い、水中ウォークに余念がない。日々健康増進に努めているというわけだ。おかげで体重は五キロも減った。なんとフットワークの軽快なことか。

しかし、ジムを出たとたんにするのは・・・・一服のタバコだ。
汗を流した後のタバコほどうまいものはない。

でも、コレって大きな矛盾だろう。
体を鍛えながらタバコを吸ってるわけだから。

・・・とは言え、この矛盾がたまらない快感なんだよなア・・・ 

人生にムダはつきものなんだ。ムダのない人生なんて、つまらないではないか。
SARSに想う 更新日時:2003/05/12


今日、TVや新聞紙上で連日話題になっているのが新型肺炎『 SARS 』である。WHOの発表によれば、世界各国地域の感染者数が7千人を超え、これによる死亡者数もついに5百人を大幅に突破したという。 この情報を聞く度にボクの脳裏をよぎるのは、ボクが小学校四年生だった昭和24年秋から25年冬にかけて日本列島に猛威をふるった法定伝染病『 百日咳 』を思い出す。

 『 百日咳 』はその名が示すように、かかったら百日間も咳が止まらないという強裂なカゼだった。とにかう一旦咳込んだら息を吸うヒマがないほどの咳を連発し、やっと咳の発作から解放されると、まるで虎落笛( もがりぶえ )のような音を発した。ノドの気管が炎症を起して細くなっているので、息を吸い込もうとすると ピィーッと笛のような音を発するのだ。こんな発作が一日に数十回も起きた。だから感染者はたちまち体力を失い、死亡者が続出した。

 当時の統計によれば、この年日本列島に猛威をふるった『 百日咳 』の
感染者数は16,110人を数え、うち死亡者数は9,105人を記録したという。

 記録的に見れば『 SARS 』は『 百日咳 』の比ではない。もちろん当時の日本は戦後間もない時代で、栄養面で国民の体力が著しく低下していたことと、医薬品や医療面でも整っていなかったことが大きな要因だろう。

 しかし、真偽のほどは定かではないが『 SARS 』は子供には感染しないという。

それに比べて『 百日咳 』の感染者は圧倒的に体力の弱い幼児だったことが、
これほどの死亡者を出す要因だった。

その死亡者の一人がボクの弟だった。

 夜な夜な襲い来る咳に抗し切れず、三歳という幼い瞳が落ちた瞬間を、
今日でも忘れることはない。

このエピソードは、ボクの作品「オーイ!!やまびこ」の第17話『 百日咳 』をお読みいただければうれしく存じます。
ついに創刊「釣りキチ三平/CLASSIC」 更新日時:2003/05/14


5月13日夜・・・。酔って、すっかりマヌケ面で祝杯を上げているのが
ボク(矢口)と川鍋捷夫編集部長である。

待望の『 釣りキチ三平/CLASSIC 』創刊号の見本が出来てきたのだ。もちろんこの本の発売日は5月20日だから、それまでは店頭にでることはないシロモノだ。 

それにしても川鍋さんはすごい編集者だ。講談社では『 釣りキチ三平/CLASSIC 』の創刊に向けて、自然派生的に21名のプロジェクトチームが出来たというが、その中心が川鍋さんだった。

そして、この日の乾杯はボクと川鍋さんの約束のもとに実現したものだ。お酒は宮崎県の銘焼酎『 百年の孤独 』。それをボクが調達し、「 創刊号が出来たら乾杯しよう 」という約束だった。

それが、見事実現したのだ。 

あとは、読者の皆さんが買って喜んでくれるだけだ。
小泉泰 先生との別れによせ 更新日時:2003/06/15

★左が矢口★ ★右が小泉先生★

小泉先生とボクとの出会いは 昭和二十七年( 一九五二 )四月のことでした。この年ボクは中学一年生に進級したのですが、ボクらの担任として迎えてくれたのが小泉先生でした。

以来、中学生活の三年間、ボクらは小泉先生を担任と仰ぎ、苦楽を共にして来ました。

小泉先生の人間像については拙著「 蛍雪時代 」にくわしく触れていますのでご覧いただければ幸いと存じます。

とにかくエネルギッシュでバイタリティに富んだ熱血先生でした。
ボクはもうイッペンでシビれてしまい、ひたすら先生をコピーする日々でした。それほどボクは小泉先生に傾倒しました。

なかでも生涯忘れ得ぬ一件があります。ボクの高校進学にまつわるエピソードです。

わが家は山間の貧しい農家でした。だからボクは「 進学 」はあきらめて、
必然的に「 就職 」の道を選び、二学期の終る頃には浅草のブラシ工場への就職が内定していました。中学生は「 金の卵 」ともてはやされ、就職列車に揺られて「 ああ上野駅 」の時代でした。

二学期の終り頃の秋田は一メートル余りもの積雪に見舞われます。その日、就職組のボクには進学組のように受験を控えての補習授業もなく、早めの下校となり夜を迎えていました。 

「 こんばんは・・・!!」

雪深いわが家の玄関に聞き覚えのある声でした。
まさかと思って戸を開けると、頭に白い雪帽子を乗せた小泉先生が立っていました。
学校からわが家までは片道八キロの雪道です。
小泉先生はそれをかき分けての訪問でした。

「 お父さんとお母さんはいる・・・?」

幸いこの夜は父も母もいました。先生はつかつかと部屋に上がるなり、
時を忘れての膝詰め談判に入りました。

「息子さんを高校に進学させて欲しい」と。

父は経済的理由を楯にガンとして受けつけません。

「 でもお父さん、あなたの息子さんは頭のいい、よく出来る子です。こんな子を中学だけで終らせてしまうのは、あまりにもったいない。もう三年間、頑張って高校に入れてやって下さい 」 

小泉先生は

= 教科学習を教えることのみが教師の仕事ではない。生徒一人一人の悩みや苦しみを分かちあい、楽しみを共有することこそが真の教育だ =

という理念の持ち主でした。

この夜のわが家への訪問は、誰に頼まれたものでもなく、まさにその理念に従ったものでした。だから、熱弁をふるって父を説得する姿に、ボクの胸は熱くなり、涙がとめどなく溢れました。

小泉先生の説得は夜半に及びました。結果ボクは急転直下「 進学 」へと大逆転したのでした。

 人生には多くの人との出会いがあります。そして、その人生の節目節目に大きく作用する人との出会いがいくつかあると言われています。ボクの中学時代に小泉先生との出会いがなかったなら、なかんずくあの雪の夜がなかったならば、ボクは一体どんな人生を歩んでいたことだろう。その意味でも「 マンガ家・矢口高雄 」の誕生に最も大きな作用をもたらしたのは「 小泉先生 」だとボクは思っています。

 「 先生、ありがとうございました」

-合掌-
何ということだ・・・・・!!  更新日時:2003/07/18


またまた児童による不可解な事件が立て続けに起きてしまった。
 
長崎の園児を殺害したとされる中学一年生の男子の事件と、赤坂のマンションに監禁された稲城市の小学六年生の少女四名にかかわる事件である。この二つの事件には、「 加害者と被害者 」の違いはあれ、根底には共通したものがある。 どちらも発達途上の「 性 」に深く根ざしているからだ。

 「 性 」の問題は、健全でありさえすれば誰もがその成長と相まって自然に
乗り越えられるはずのものである。

 長崎の中学一年生は、そのバランスが崩れた途上の病的な行動だったろう。

 だが、稲城市の四名の少女たちの件は、事件としては被害者ではあるが、そのプロセスはあまりに大人の世界をナメた、軽率な行動だったという誹りはまぬがれないだろう。とにかく、ボクが長年封印していた「 釣りキチ三平 」を再び描こうと思い立った動機の一つが

『 近頃あまりにも青少年犯罪が若年化している 』

ことに対する危倶だった。

 そんな危倶が現実のものとなって、吐き気がするほどの悪寒を覚える。ますます責任を持って「 平成版 」を描かなければなるまい。人は様々の体験をし、それによって人格が形成されて行くものだが、殺人と交通事故の加害者という体験だけはしたくないとボクはいつも思っている。
キャラクターが変化する理由(ワケ)・・・・ 更新日時:2003/08/01


「釣りキチ三平/CLASSIC」も、あれよあれよという間にもうNO.6を数えた。時の流れは本当に早いものだ。 ところで、もちろんそれは最初からわかってはいたことだが、こういう編成をすると格段に目につくのは初期の頃の絵の下手さ加減だ。キャラクターの顔などはまるで別人と思えるほどに変化しているし、背景や構成構図等もしかりである。だが、別の見方をすればそれは「矢口高雄」が歳月を重ねるなかで次第に上手くなっているという証拠でもあり、絵は毎に描いていれば上手くなる、という証明でもあるだろう。

 キャラクターの変化という観点からみてもそれは言える。マンガ家が一本の連載作品をスタートさせるときに考えるのは、ちょっとすましたキメの表情と、喜、怒、哀、楽の五つのパターンである。

だが、ストーリーが進み、そのキャラクターが様々な試練に出会うごとに、
その五つのパターンでは足りなくなってしまう。悲しいのにヘラヘラ笑っているとか、逃げ出したいほど怖いのに強がってる等々、喜怒哀楽の間の微妙な表情が必要になってくる。

 つまり、そうした体験を経ることによって、次第にキャラクターが変化し
やがて固定されて行くということである。

 例えば、谷地坊主や、カナダのサーモンダービー編に登場するアラスカグリズリーのような大男と対決するときには、なるべくその対比をデフォルメして
三平くんは小柄に可愛いくなるように演出するし、逆にチビの正治が相手だとちょっと大人びた三平くんになる。

 魚紳の場合がいい例だ。

「三日月湖の野鯉編」に初登場したときは、ボクのイメージとしてはウイスキーをラッパ飲みする、やさぐれた旅の風来坊釣り師という設定だった。しかし、そのクールなところが魅力だったのか女子中学生や高校生の間で
人気となり、ファンレターが殺到したため、ボクのペンもつい調子に乗って、
次第に足が長くなり、よりクールなハンサムとなって行った。

 とにかく、絵は毎日描けば上手くなるものだし、それ以上に伸びなくなったらマンガ家としては限界ということだろう。
台風・・・・ 更新日時:2003/08/09


こんな格好するからギックリ腰になるんだよ!

現在、このコラムを書いている間も、テレビでは台風10号の行方が刻々と報じられている。水俣で大規模な土石流の被害があったのは、ついこないだのことだから、『沖縄や九州って台風銀座だなァ・・・・』ってつくづく思う。しかし、この台風が実は特異な人間性を育てているのでは・・・・・と、ボクは常々考えて来た。 

特異な人間性とは芸能人である。

考えてごらん、沖縄や九州出身ではかつて「フィンガー5」に始まり、
安室奈美恵、マックス、スピード、ビギン、そして今日大人気のDA PUMP
ちょっと変ったところでは超腹話術師のいっこく堂がいる。

一方九州出身の芸能人と来たらもう数え切れない。
松田聖子、藤井フミヤ(元・チェッカーズ)、井上陽水、小柳ルミ子、
水前寺清子、村田英雄、にしきのあきら、甲斐よしひろ、財津和夫、
高倉健、タモリ等など、枚挙にいとまがない。
何故こうまで優れた芸能人を、この地方が輩出するのだろう。
それを解くキーワードが「台風」ではないかとボクはずーっと考えて来た。
まず台風は、とにかく窓なんかに板張りをし、一晩ジッとガマンしていれば
通り過ぎて行く。台風一過の後はウソのような晴れやかな世界だ。



こんな体験を子どもの頃から毎年のように繰り返ししていると、「明日は明日の風が吹く」という気質が育くまれ、海のものとも山のものともわからない芸能界に踏み込むバネになっているのではないだろうか。

それを示す証拠がある。

それは東北地方などの「雪国」出身の芸能人が実に少ないことである。
これをボクは「雪型の気質」と呼んでいる。台風は一晩ガマンすれば通り過ぎてくれるが、雪は一冬を耐え忍ばないと春が巡ってこない。だから、雪国の人たちは何事につけても慎重で、石橋を叩いても渡らない性格が構築されてしまう。とてもじゃないけど、海のものとも山のものとも知れない世界に踏み込もうとする勇気などわいて来ない、と言えるだろう。

ボクは雪国秋田のなかでもひどい豪雪地帯に生まれた。
だから何かにつけて慎重だったのだろう。

芸能界ではなかったが、マンガ家としてデビューしたのが30才という遅咲きだった。

面白いドラマを創るコツ  更新日時:2003/08/09


面白いドラマを創るコツはいろいろあるけれど、まず、「相反するものを結びつけよ」だネ。AとBとは常識的に考えてもとうてい結び付かない。だが、それ奇想天外なアイデアで結び付ける、と言うことだ。

この手法は推理ドラマでよく使われる。例えば、いかにも犯人らしい人は犯人でなく、絶対犯人ではなさそうな人が犯人だった、とうようにネ。
ロシアからのチャーター便  更新日時:2003/09/13

朝、アバチャホテルの左側にあった公園で散歩する矢口。

ロシアからの特別チャーター便による「カムチャツカ釣りツアー」への参加が
決ったとき、大きな期待感に胸をふくらませる一方で、ちょっとした不安もよぎった。ロシア製の飛行機ってどんな飛行機だろうか・・・だった。

「宇宙船ミール」を打ち上げる技術を持った国の飛行機じゃないか・・・
と心には言い聞かせてはみるのだが、「ホントに大丈夫かなァ・・・」というのが正直な気持ちだった。早い話、ボクらが日頃利用している飛行機は、大半がアメリカのボーイング社製なわけで、ロシア製の飛行機は見る機会もほとんどなく、イマイチ信頼感が持てない、というのが本音だった。

これには理由がある。もう二十年前の1983年のことだが、この年ボクは
かなり長期にわたって中国旅行をしていた。目的は「釣り」で、1983年の十月から半年ばかりの間に三回、延べ日数にして六十日余りの間中国各地を釣りまくった。



この旅行の成果として「釣りバカたち・中国垂釣編」を著わしているが、
それはさて置き一回目の釣行の折山東半島のイェンタイからチンタオまで
飛行機で移動することになった。その飛行機が、実はロシア(当時はソビエト)製だったのだ。

乗って驚いた。六十人乗り程度の国内近距離用の小型ジェット機だったが、中の座席が全てパタパタと床に伏せられていて、それを人手で起して乗るという仕掛けになっていた。しかも当日は定員の半分ほどの乗客しかなく、乗客は飛行機のバランスを保つよう左右に均等に振り分けて着席させられ空席の座席は前倒しに伏せられたままだった。更に驚いたのは、その伏せられた座席に、さっき預けたばかりの乗客の荷物が積み込まれたのだ。それも乗客同様左右のバランスを取るように・・・・である。幸い好天にも恵まれ、一時間半余りのフライトも、どうにか無事に着陸となったのだが、まんじりともしないひとときだった。

そんな想い出を秘めながらチャーター機の到着を待ったわけだが、低くたれ込めた雲間から舞い降りて来た機体は、惚れぼれする程にカッコいい「ツポレフ154型機」だった。

二十年の歳月を思い浮べながら、
ボクはいつの間にかホッと胸をなで下ろしていた。
ロシア料理の味 更新日時:2003/09/15

なんだか酔っ払ってる矢口(オヤジだなぁ~)

日本人にしては全く珍らしい・・・とよく言われるが、実はボク「味噌」が大の苦手である。

いや・・・・苦手などと言う半端なものじゃない。

「大っきらい!!」、「見るのもイヤ!!」なのだ。

と言いながら不思議なことだが、トレーニングの甲斐あって今日では「味噌汁」だけはどうにかイケるようになった。・・・が、どこでも食えるというわけにはいかない。おふくろや妻が作ったもの、あるいは料亭や温泉旅行の朝メシについて来るものはOKで、その他はその場の状況や雰囲気によって違ってくる。

しかし、とにかくボクがきらいなのは「生味噌」である。

だから、味噌あえや味噌だれで食べるもの、味噌をこってり塗りたぐって
焼いた田楽などの類は全く手が出ない。手が出ないばかりか、例えば隣りでモロキュウなんかをほうばっているヤツがいると、蹴飛ばしてやりたくなる。

かなり以前のことだが、某出版社の編集長に誘われて食事をし、その後、銀座のクラブに流れて飲んだ。クラブというところはたいてい照明のルックスを絞り、いわゆるほの暗いムードをかもし出している。おそらくそうする事によってホステスさん達の見栄えを良くしようという演出なのだろうが、ボクはそのワナにまんまと引っかかってしまったのだつまり、そんなほの暗いなかで突然 A 嬢が「ア~ン」とばかりにボクの口にフォークでさした何かを運んで来た。いいムードにすっかり鼻の下をのばしていたボクは、何の疑いもなくパクリと口にふくんだ。

ふくんだとたん、ボクの鋭敏な味覚は「それ」が何であるかを察知し、まっしぐらにトイレに駆け込んでいた。味噌をたっぷり塗りたぐったコンニャクの刺身だったのだ。あわれボクは便器に顔を突っ込み「ゲーゲー」と、それまでいただいた食事さえも吐き出していた。

なんでそこまで味噌がきらいになったのかは、拙著「9で割れ!!」に触れているので、是非「それ」を読んで欲しい。

とにかく「あの色」がボクには許せないのだ。

しかし、人間には誰にでも大なり小なりの好き嫌いはあるだろう。そして、「何故嫌いなの・・・?」と聞かれても、うまく説明出来ないことも良くあり、結局「嫌いなものは嫌いさ」ということで終ってしまう。

ところで、そんな好き嫌いのあるボクだから、カムチャツカ行きが決った
ときは「不安」が少なくなかった。ただ、結果としてはロシア料理の調味料の基本は「塩」だったので、安心して食べることが出来た。

決しておいしいという程の料理ではなかったが味噌が使われていないだけに無駄な神経を使わずに済んだ・・・・というべきだろう。
ヒグマの巣のなかで 更新日時:2003/09/15


「・・・・と言うことは、ロシアという国は若干アバウトな面があるということですか・・・?」

国土が広いだけに何事につけてもおおらかな国で、なかでも時間にはルーズだと聞いたので、ボクがそう質問すると、事情通のコーディネーターは苦笑しながら答えた。

「若干ではなく、かなりのものデス」

百聞は一見にしかずだった。朝の8時30分には飛び立つはずのヘリコプターが、二時間待たされた。強風等で飛べないと言うのなら理解も出来るが、天候は上々なのだ。

とにかく、釣りに行く足として初めてヘリコプターに乗った。おそらく、70年代に造られた軍用のヘリだろう。定員は二〇名。兵隊と銃器や弾薬を運ぶためのものだから、およそ乗り心地などという点には全く配慮されていない。座席などはむき出しのジュラルミン板である。この日の日本人の参加者はボクを含めて十三名。どの顔も笑顔は囲っているが、不安感はありありにつのっている。

だが、飛び立ったら気分は一変した。ヘリで釣りに行くという初めての体験に
心が躍ったのか、結構快適ではないか。下界を矢のように置き去りにして、
次々と新しい風景が展開する。爽快そのものだった。

通訳が大声で下界を指さした。あわてて見下ろすと、ツンドラの繁みの
間を逃げ惑う二頭のこげ茶色の毛並み。

「ヒグマだっ!!」

カムチャツカ半島は、面積にして日本の一.三倍である。そのなかに人口は33万3000人。ほとんどが手つかずの自然で、その自然の住人は8000頭あまりのヒグマ。世界でも有数のヒグマ密集地だと言う。

現実だった。背筋に冷たいものが走った。

操縦士は、そんなボクらの恐怖心を笑うかのように、ひとしきり逃げ惑うヒグマを追跡してみせた。これから着陸するであろう釣り場のことを思うと十三人の顔は誰も真顔になっていた。

およそ五十分、距離にして150kmは飛んで目的地「ワヒール川」が見えてきた。着陸地点は、その川の小砂利が堆積して出来た川原だった。
轟音を発して旋回するペラの風圧を受けて川原に砂塵が舞い、周囲の繁みも大きく波打つなかに、ヘリは無事到着した。

さあ、カムチャツカの釣りの開始である。


予定より2時間も遅れたヘリ。上空から見下ろす風景はサイコ~!ヒヒヒ・・・皆、怖がってんぜ~ワヒール川
「ナイアガラ」・・・ 更新日時:2003/10/28

本日、64歳の誕生日を迎えた矢口。矢口が着ているカシミアのセーターは、家族からの誕生日プレゼントpart-1。

くだものの秋もグンと深まって、残すところは富有柿(ふゆうがき)とリンゴのフジ、ミカンぐらいになってしまった。

それにしてもこの秋も、多くの方から様々なくだものをいただいた。
なかでも、ボクの郷里から毎年送られて来る「ナイアガラ」というブドウは、ボクが一番好きなくだものの一つなので、一粒一粒をしっかりと味わって食べた。

ところで、「ナイアガラ」というブドウをご存じだろうか。
いわゆるブドウ色(紫)に熟れる種類ではない。
黄緑色の粒だが、熟れるとちょっと黄ばんだ感じにみずみずしく透けて来る。
コレが食べ頃の「ナイアガラだ。


結婚40周年の時に娘2人からパジャマをプレゼント。仕事以外は、
ほとんど家にいるので活用してるみたい(笑)


ボクは東京に住んで三十余年になるが、スーパーや八百屋さんの店頭でお目にかかったことは一度もない。

試しに銀座に出た折高級果物店をのぞいてみたら、やはりなかった。
で、店主に伺ってみると、

「一部の地方で好まれる品種で、都会ではあまり評判も良くなく、入荷しないのだ。」

との答えが返って来た。

たしかに「ナイアガラ」という品種は、外観的に見栄えがしない。巨峰のような風格もないし、マスカットのようなエレガンスに欠ける。そして、その味には突出した甘さがあるわけではなく、むしろ控え目で、ネクターのような「ねっとり」とした甘さなのだ。しかし、香りはバツグンである。一房お盆に乗せて部屋のテーブルの上に置いただけで、たちまち部屋中に「アロマ効果」が満ちて来る。

これがいいのだ・・・・・・・

しかし、やはり高級果物店の店主が言ったように、やはり一部の地方で好まれる品種なのだろう。ボクの郷里・秋田県南部では今日でもかなり作られていて、シーズンには国道わきに直売のテントが立ち並ぶほどの人気なのだ。

そう考えたとき、ボクが「ナイアガラが好きだ」という理由に思い当った。

その味を、乱暴に表現すれば、見栄え同様に「田舎くさい」のである。ボクはそこが好きなのだ。

近年は品種改良が進み、種々果物や野菜等の風味が洗礼されて来ている。大根ひとつを取っても、辛味が消え、大衆に好まれる甘い風味に変って久しい。

一方では、その逆を好む人たちのために、「辛味大根」という品種も見直されてはいるが、なんとなく野菜や果物の風味が画一化の方向に進んでいる気がしてならない。

その点「ナイアガラ」は田舎くさく、懐かしい風味ではあるが、一本筋の通った頑固さがある。ボクが好きな理由は、おそらくそこにあるのだろう。だが、近年高級品種に押され、「ナイアガラ」の作付面積が減る傾向にあると聞く。だからボクは知り合いの果樹園にこうお願いしている。

「どんな品種を導入しようとも、ボクのために三本だけはナイアガラの木を
残して欲しい。その三本のオーナーはボクが引き受ける・・・!!」
・・・と。
娘たちの成長・・・ 更新日時:2003/11/20


ボクには二人の娘がいる。その娘たちの成長期にボクは、何の制限も設けずに
マンガの本を沢山読ませた。自分そのものがマンガを描いているわけだから、
読ませるのも当然と言えるだろうが、わが家には出版各社から毎月七~八十冊
もの週刊誌や月刊誌の献本があるのでそれを自由に読ませたのだ。

自由にとは言っても、もちろんボクには考えがあった。仮に手当たり次第に読んだとしても、きっと成長過程に見合った作品を好むようになるだろうし、そこから良質な作品をチョイスする判断力もついてくるに違いない、と考えてのことだった。

そんな娘たちが中学生になったある日、ボクの作品をどう思うかを聞いてみたことがある。すると、実に明快な答えが返って来た。

「パパのマンガは、ゴチャゴチャ描き込み過ぎて読みにくい・・・・・!!」

思わずズッコケそうになった。その頃の娘たちは少女マンガに熱中していた。
言われて少女マンガを見ると、あまりバックが描かれていない。少女マンガ家たちはきっとバックを描くのが苦手か、そういうトレーニングを
していないのだろう。

いや、そんなことを言ったら大きな誤解を招きそうなので、言葉を改めよう。
大胆にバックを省略することにより、作品の透明感を際立たせ、少女読者の
心に深く食い込もうとしているのだろう。そう考えると、娘たちのアドバイスに「なるほど」と頷かざるを得なかったのだが、ボクは胸を張ってこう答えた。

「パパは、手を抜かずに隅々までていねいに描いた絵が大好きなんだヨ・・・・」

顧みて、マンガ作品はどれにも言えることだが、かなりのパワーと集中力が
なければ描き得ない。なかでも「野性伝説シリーズ」は作品の性格上、最も
パワーと集中力を必要とする作品だった。もっとわかり易く言えば、この作品の生命は「距離感」をいかに粘り強く描くか、だった。追う者と追われる者、襲う者と襲われる者、狩る者と狩られる者の位置関係、すなわち距離感を具現化して見せなければ成立しないドラマだった。

「野性伝説」のタイトル通りに、全編の主人公は動物をも含めた全ての「野生」そのものだった。動物たちを生々と描こうとすれば、必然的にその背景となる山川草木はもとより、風や吹雪や雪庇さえも活写しなければならない。
いや、背景が生々としているからこそ、動物たちも生々と呼吸してくれる、
と言ったほうが適切かも知れない。そのために、最大限のパワーと集中力を
傾注しなければならない作品だった。

そんなボクの意図が成功したかどうかは、読者の皆さんの評価に委ねるしかない。だが、仮にいくばくか成功していたとすれば、その要因はボクのこだわりに因るところが少なくないだろう。手を抜かずに隅々までていねいに描いた絵が大好きなんだヨ・・・というこだわりである。

ちなみに、今日「野性伝説」に対する娘たちの評価は「パパの作品のなかではベスト3に入る力作」・・・だそうである。どうやら娘たちも、ボクの作品が理解出来るようになったようで、
父としてもうれしい限りである。

(このコラムは、文庫版「野性伝説」の最終巻のあとがきとして書いたものです)
「ワニる」=秋田弁講座 その1  更新日時:2003/11/20


今日では、テレビやラジオの普及でそれほどでもなくなったと聞くが、やはり東北のいわゆる「ズーズー弁」を使う地方の人たちには一様に言葉に対する「コンプレックス」がある。

ボクは、一応標準語は使えるが、長いこと(三十歳まで)秋田県人をやっていて、日常的に秋田弁のみを使っていたので、どうしても訛りが抜けない。だからと言ってひどいコンプレックスに感じたことはないが、やはり心のどこかではきれいな発音をする東京の人たちをうらやましく思う時もある。

その点「三平くん」は、どこへ行っても誰と会っても堂々と秋田弁を丸出しにする。これは、ズーズー弁のために卑屈になっている人たちへのエールとして意識的に描いているのだ。

言葉を換えて言えば

「卑屈にならずに自信を持って堂々と生きよう・・・・・!!」

というボクのメッセージでもある。最も厳密に言えば三平くんの言葉は正確な秋田弁ではない。やはり全国の読者が読むわけだから、標準語的秋田弁と言った方が適切だろう。

しかし、方言には標準語(もしくは共通語)では表現し得ない言葉が沢山ある。



秋田弁のなかに「ワニる」という言葉がある。秋田県と言っても、ボクの郷里の県南地方で広く使われている言葉だが、標準語のどんな言葉を当てはめても、そのニュアンスにピタリと来るものはない。

「ワニる」とは、瞬間的に示す人間の顔の表情を指す言葉である。例えば、テストの時カンニングがバレたとしよう。あるいは、浮気現場で奥さんに踏み込まれたという場合でも良い。一瞬心臓が破裂し、顔面からはサッと血の気が引くことだろう。

とにかく笑いとも、ベソをかいたともつかない微妙な表情になり、顔が引きつってしまうだろう。この表情は一瞬だが、止めようとしても止まらない。おそらく不随意筋のなせる技だろう。こんな表情を秋田弁ではズバリ一言「ワニる」と言うのだ。

この表情の後に人間は我に返って言い訳をするなり、反撃に転ずるなりただひたすら謝ることになる。つまり、この一瞬の固まって引きつった表情が「ワニる」なのであって、「バツが悪い」とか「引きつった」などでは表現し得ない。

今回のコラムは秋田弁の「ワニる」を採り上げてみたが、
好評であれば続編を書いてもいいと思っている。

ではまた・・・・・・・
秋田弁講座 その2&3 更新日時:2003/12/10


「シナい」=秋田弁講座-その2

例えば、キンピラゴボウやスルメがなかなか咬み切れない状態だとしよう。
東京弁や標準語ではこんな場合

「このキンピラゴボウ(あるいはスルメ)固くて食えないワ・・・・・!!」

と言うことになるだろう。
そう、「固い」、あるいは「堅い」、「硬い」と表現する。

だが、秋田弁で「固い」とは、折ったらポッキリと折れる枯枝や、ハンマーでたたいたらパッカリ割れる岩や石のような様を指す。キンピラゴボウやスルメは、決して折れたり割れたりはしない。

そんな様を秋田弁では「シナい」と表現する。

「このキンピラゴボウ(あるいはスルメ)シナくて食えたもんでねぇ・・・!!」となる。

「シナい」は字に宛てると「撓い」であり、しなやかなことの意である。
釣り竿がシナるとか、しなやかな姿態のバレリーナなどの用語例もあるだろう。キンピラゴボウやスルメは決して「固い」のではない。

「シナい」のだ。


多分、陽水か裕次郎の歌
熱唱しているんだと思う。
歌い始めるとなかなかマイクを
離さない矢口。店中に広がる矢口の歌声・・・・
同情します・・・・・矢口の歌声に酔った川鍋さん。
何故か男同士でダンスを始めた。


「エズい」=秋田弁講座-その3


目にゴミが入って涙ポロポロの状態のとき、東京弁や標準語的表現では「痛い」となるだろう。だが、秋田弁で「痛い」は、つねられたり叩かれたりあるいは包丁などで指先を切ったような場合に使う言葉だ。目にゴミが入って涙ポロポロの場合、前記のごとき痛覚は決してない。

秋田弁ではそれをズバリ一言「エズい!!」と表現する。

ところで「エズい」は、「東海道中膝栗毛」にも使用されているので、江戸時代には極く普通に用いられていた言葉だったようだ。ただし、当時は「気持ちが悪い」、「おそろしい」、「いとわしい」の意味だったようで、秋田弁のそれとはかなりニュアンスが違うように思う。

つまり、「言葉」というものは常に流行りすたりのなかにあり、長い年月の間には別の表現が現われて、使われなくなってしまった古い用語も多い。

そんなすたれてしまった古い言葉が、時としては多少の意味の違いはあっても「方言」のなかに残り続ける例も多い。東北地方の方言のなかには、そうした古い大和言葉や万葉言葉が実に多く残っているように思う。

重ねて言う。目にゴミが入って涙ポロポロは、決して「痛い !」のではない。

「エズい!」のだ。