矢口高雄の独り言 2007

明けましておめでとうございます。(前編)  更新日時:2007/01/01
新年に当って、何か一言気のきいたコラムを書いてみようと机に向かったのだが、いまひとつピリッとしたモチーフが浮かばない。さればと言って、昨年の反省だとか、今年の抱負などを綴ったところで、そんなものは毎年の繰り返しで面白味に欠ける。そこで、昨年末ちょっと胸にひっかかり、しばらく頭の片隅にこびりついて離れなかった一件を記してみることにする。

ボクには、日頃懇意にさせていただいている俳人がいる。丸岡忍さんという方で、初めてお会いしたのが平成十一年(1999年)秋のことだった。

この秋(10月28日)、ボクは馬齢を重ねて、ついに還暦を迎えた。そんなボクの「還暦」を祝って、親しい仲間たちが洒落た祝宴を催してくれた。もちろんボクは祝福される側だから、祝宴の内容については一切発起人たちに任せたことは言うまでもない。

しかし、印刷された案内状を見せられたボクは、思わず口をあんぐりさせてしまった。

『矢口高雄の還暦を祝う会』
● 日時 : 平成十一年十月二十八日 午後六時~
● 場所 : 墨田区向島 料亭「桜茶や」
● 会費 : 二万五千円(記念品代を含む)

「ホテルの立食じゃあありふれてつまらないし、ここはちょっと洒落て、一流料亭で芸者衆を上げて、パーッとやるのも面白いと思ってね」

「で、でもこの会費では・・・・」

「何言ってるんだ。一流料亭では普通五万円以上はするんだぜ。それを半額にしてもらったんだ。ついでに芸者さん十人もつけてネ」

・・・と、すまし顔の発起人。その会場選びや、会席料金の交渉に当って大きな口添えをしてくれたのが丸岡さんだったらしく、「祝宴」にも出席いただき、ボクとの初対面となったのだった。

祝宴の様装については、ご想像におまかせしよう。なにしろ、かつての宰相軍団や政財界の大物たちが足しげく利用したという高級料亭だけに、それはもう非日常的な優雅さで、宙を舞うような一夜だったとだけ記しておこう。

多くの方々から祝辞を頂戴した。
なかでも、丸岡さんから贈られたのは、色紙にしたためられたお祝の一句だった。

漢(おとこ)どち 華甲(かこう)の宴(うたげ) 竹の春 【忍】

翌朝、ボクはその色紙をためつすがめつ眺めた。俳人の一句だから名句に違いないだろうが、浅学非才なボクには正直言って良く理解出来なかった。「華甲」という言葉もそうだが、「竹の春」には戸惑った。なぜなら当夜は十月二十八日で、秋も終わろうとする頃だったからだ。

しかし、疑問を疑問として放置できないのがボクの性分である。そこで採ったのが分解作戦である。俳句をこんなふうにして理解しようとする魂胆は邪道の極みだろうが、要するにバラバラに単語に分解して、辞書で引いてみたのだ。

「漢」=おとこ。男子
「どち」=仲間。友だち。たち。ども。
「華甲」=(「華」を分解すれば、六つの十と一になる。「甲」は甲子<きのえね>の意)数え年で
六十一歳の称。還暦
「竹の春」=竹の新葉の盛りである陰暦八月の称。ちくしゅん(俳句では秋の季語)

驚いた。春という字を用いながら秋の季語だったとは。春があるのだったら、
秋もあるだろうと引いてみたら、あった。

「竹の秋」=竹の落葉期である陰暦三月の称。ちくしゅう(俳句で春の季語)

つまり、「漢どち・・・・」の句は – 男友だちが集い合って、還暦の宴ににぎわっているよ – ということになるだろう。俳句の妙と、俳人丸岡さんの品格に心を奪われた一瞬だった。

後編へ続く・・・・・・
明けましておめでとうございます。(後編)  更新日時:2007/01/04
そんなことがあって、丸岡さんとボクはその後四季折々の便り(ハガキ)を交わすこととなった。だが、さすが俳人だけに丸岡さんの冒頭の一行目には、決って一句がしたためられている。それがうれしく、とても清々しい気分になる。

しかし、時々わからない句もある。いや、これは一にかかってボクの勉強不足以外の何物でもないわけだが、とにかく丸岡さんは語彙が豊富で、その度に「漢どち・・・・・」の時の要領で分解し辞書を引くこととなる。

そんな丸岡さんから、新作の一句が届いたのは昨年の十二月の始め頃だったろうか。

稿債(こうさい)の 額(ぬか)へ一太刀 隙間風  【忍】

一読して、ただならね気配を感じた。思わず佳句だと唸った。・・・が、困った。「稿債」という語句に・・・・である。ボクには一度として触れたことのない語句であり、当然のことながらその意味もまたわかろうはずもない。

でも、ボクには分解作戦がある・・・とばかりにおもむろに辞書(広辞苑)を開いた。ところが、音読しても訓読しても出て来ない。「辞書に記されていない言葉って、あるのだろうか・・・?」

これが胸にひっかかった始まりだった。考えに考えてすがりついたのが最新兵器のインターネット。もちろんボクには操作が出来ないから、娘に頼んであれやこれやと検索しているうちに、やっとたどりついた。

間違いなく「稿債」の文字が写しだされた。・・・が、全てが中国語で書かれていて、その日本語訳を読んだがいまひとつピンと来ない。どうやら「稿債」は中国の故事に発したものらしく

- 借金で年が越せなくなったので、その借金を原稿で返して正月を迎えた -

ということらしい。「稿」は原稿であり、「債」は借金の意味だからそうなるのだろうが、「原稿で借金を返す」または「原稿の借金」とは、どういうことだろう。胸にひっかかった疑問が、いつの間にか頭の片隅にこびり付いて離れない日々が続いた。

しかい、「原稿」を書くという行為は、マンガ家にとっては正業である。だから、マンガ家という立場で考えてみることにしてみた。例えばマンガ家がある出版社の漫画誌に連載を依頼されたとしよう。この場合、今日までのやり方では、出版社とマンガ家の間で執筆契約書なるものを取り交わす事例はない。おそらく双方に、契約書として盛り込めないサムシングがあってきっちりした契約が出来ないのだろう。結果、ある種の信頼関係に立った口約束的な慣例で、曖昧に済ましているのが実情である。

曖昧とは言っても、原稿料は双方合意のもとに決められて執筆開始となる。
そして重要なのは締切り日。定期刊行物だから、締切り日は順守しなければならない。

だが、マンガ家が何らかの理由でこの締切りを守らなかった場合、出版社に損害を及ぼすことも考えられる。もし出版社が、その損害をマンガ家に請求出来るという契約だったなら、果たして成立するだろうか。マンガ家の個性を評価し、そのマンガ家を起用することによって自社の誌を売ろうと目論む出版社が、マンガ家に損害賠償を請求したケースは皆無だろう。

更に、連載期間という問題もある。始めた作品がいつ終わるか・・・ということだ。契約としてはこれもあり得るだろうが、マンガ作品の生命は読者の支持が最大の判定基準である。人気があり、読者の支持がある以上その作品の生命は保たれるわけだし、人気がなければいつ切られても仕方のない運命にある。

つまり、曖昧に過ぎて来た裏側には、こうした事情があってのことだったろう。

それはさて置き、マンガ家にとって最も頭を痛めるのは「締切り」である。もちろん引き受けた以上は、これを守ることがプロとしての使命である。・・・とは言うものの、無から有を生み出すクリエーティブな仕事だから、思うに任せないのが締切り日の履行である。幸運なことにボクは、プロとなって三十六年余一度として原稿を落としたことはない。・・・が、それでもカゼなどで遅れに遅れて、出来上がった一~二ページずつ、担当記者があわただしく印刷所に運ぶという場面があった。

そんな「場面を「稿債」というのなら、理解に難しくない。別に借金をしたわけではないが、締切り日には渡すと約束した以上、その原稿は債務に等しいだろう。イライラしながら仕上りを待つ編集者を背後に、必死に原稿に立ち向かう姿は、まるで原稿という債務を負った心境である。

インターネットで検索していたら、「稿債」を用いた俳句のあることを知った

- 稿債の 嵩(かさ)眺めつつ 春立ちぬ - 【稲畑汀子】

この場合の「稿債」は、作者が俳句の会派の主宰者、師匠であるという立場から考えると、おそらく門人や投句者たちから添削や指導を求められて寄せられた俳句(原稿)の嵩(積み重なったもの)と解してもいいだろう。つまり、「稿債の」一句は

- 門人や会員たちから、その添削や指導を催促されているような原稿の山を
ながめているうちに、いつの間にか春になっていたよ -

・・・ということになるだろう。だとすれば、「稿債」は中国の故事い発してはいるが、俳句界特有の歳時記のような「造語」ではないだろうか。

年の瀬も深まるなか、疑問を疑問のまま放置して置けないボクは、恥を忍んで丸岡さんにお伺いすることにした。つまり、前記のごとき疑問を、なんとも無礼にも封書にしたため質問に及んだのである。

誠実な丸岡さんからの回答は、そんなに間を置かずに来た。

ご鄭重なるご芳翰を拝受し恐縮に存じます。
ご指摘の通り「稿債」の述語は、漢和大辞典、字通、大辞林、類語辞典で見出せませんでした。先師楠本憲吉(1921~1988)に学んだまま何気なく使って来たことを、今更ながら恥じ入っておりますが、仰っしゃる通り「稿債」は俳人たちのいかにも大袈裟な物言いのようでありまして、造語に当っては執筆量を誇示したい思いが含まれていたのかもしれません。しかし、原稿を受注したからには先方に債権が発生し、筆者は債務を負うと同時に、「稿債」の履行を求められることになります。しかし、それは契約による他動的な「稿債」であり、もう一方には自発・自動的な「稿債」のあることは、先生(ボクのこと)の深く御内省・御賢察の通りでありまして、小生自身改めて教訓として学ばせて頂きました。
なかでも、後者の「稿債」こそ、まさに創造者の業とでも言うべきでありましょう。

これが丸岡さんからの返書だった。謙虚な語り口ながら、明解なご指導にただただ感謝以外になかった。おかげ様で胸のつかえもすっかり氷解し、スッキリした気分で新年を迎えることいなったわけだが、ファンの皆様との約束の「稿債」(平成版「三平」)は抱きかかえたままの越年である。誠に申し訳ない。従って今年の最大の目標は、まずもってこの「稿債」を履行することにあり、と強く肝に銘ずる次第である。
初夢  更新日時:2007/01/06
初夢は正月二日の夜に見る夢とされている。

これまでに、毎年のように見て来たはずだが、特に記憶に残っているものはない。仮りに目覚めたときには『ああ・・・おかしな夢を見てたなァ・・・・』程度には思うことも少なくないが、それも束の間のことで、いつの間にか忘れてしまう。それが夢というものだろう。

ところが、今年の初夢は違っていた。現にこの稿を書いているのが五日だが、まだ記憶にかなり鮮明だ。いままでに見たことのないシチェエーションだったからだ。もったい振らないで紹介しよう。

「鉄腕アトム」の新連載を開始した夢だった。

夢のことだから、何がどうしてそうなったのかは一切不明だ。そして、それがどの誌に連載となったのかも、夢の中には登場していない。

ただ、その一回目の原稿を受け取りに来た編集者の顔ははっきりしている。双葉社の吉留博之という編集者だった。

吉留氏は、ボクが「漫画アクション」(双葉社)に「釣りバカたち」を連載していた頃(昭和四十七年)に担当として出会った御仁だが、何故か気が合って、今日まで兄弟以上の親しい付き合いに及んでいる。

その吉留氏が、受取った原稿を見ながらニコニコ笑っている。

それに対してボクは、

『本誌に掲載される前にただちに手塚プロに赴いて、原作者の手塚治虫先生の承諾を取り付けてほしい』

・・・と、頼んでいる。どうやら新連載の「鉄腕アトム」は手塚治虫原作の作品らしい。ついでに言えば、担当者が吉留氏ということは、発表誌が「漫画アクション」誌ということになるだろうか。

吉留氏の傍らに小学五~六年生の男の子がいた。顔はさだかでないが、どうやら吉留氏の息子・尚人くんのようだ。その子が

『お父さん、アトムの連載は四回で終るんだって・・・・?』

・・・と、聞いている。それに対して吉留氏は

『いや、矢口センセイのアトムは、手塚先生とは切り口が違うから、きっと今日のマンガ界に大きな旋風を巻き起こすだろう。だから、すっとすっと続くさ・・・・!!』

・・・・・と、そこで目が覚めた。

不思議な夢だった。これが平日ならば、そんなに気にも留めることもなかっただろうが、なんと2007年の初夢だったので、妙に脳裏に残った。

夢には「正夢」と呼ばれるものがある。夢に見た通りのことが現実となる夢のことだ。・・・が、まさか今日のボクが「鉄腕アトム」を連載することになるとは考えられないし、またそれを依頼する出版社もあるとは思えない。

しかし、「鉄腕アトム」を始めとする手塚先生の初期の作品群は、ボクにとってマンガの面白さを教えてくれたばかりか、マンガ家を夢見る原点となった作品である。とすれば、今年の初夢は、ボクに「原点に帰れ!!」・・・と、示唆している様な気がしてならない。
物忘れ  更新日時:2007/01/31
人間は加齢につれて物忘れがひどくなる。。

脳内構造の衰えによる生理現象だから、個人差はあるだろうが、誰もが避けては通れないだろう。それにしても昨今のボクの物忘れはひどい。例えばこうだ。

『ホラ、あのヒゲをたくわえたシンガーソングライター。アレ、誰って言ったっけ・・・・??』

頭のスクリーンには既にその御仁の顔が鮮明に写し出されてはいる。だが、名前が思い出せない。問われた相手も必死に考えてくれている。・・・が、出ない。ヒゲのシンガーソングライターではヒントが不足なのだろう。そこで更なるヒントを考える。

『そうそう・・・ホラ、仙台を舞台にした「青葉城」を歌った人・・・・・!!』

で、やっと「さとう宗幸」の名前が出る。

ある夜の仕事帰りに、行きつけの寿司屋で常連客と飲んだ時のことだった。常連客はボクと大差のない年代の御仁たちだが、何かのはずみで話題がロシアの大統領に及んだ。ロシアの現大統領はプーチンだが、大統領制を施行したのはソビエトからロシアに代わった近年のことだから、そんなに記憶に遠い昔のことではない。世界的流行語とさえなったペレストロイカなる変革政策を唱えて初代大統領に就いたゴルバチョフの名は、その風貌と共にたちまち頭のスクリーンに浮かぶ。

だが、そのゴルバチョフとプーチンとの間にもう一人いたはずだ。金髪で、大柄の赤ら顔で、大酒飲みの御仁だったことは、常連客は全員知ってはいたが、その名前が出て来なかった。

ウンウン唸って五分近くが流れた。寿司屋の大将もその一人だったが、これでは埒が明かないと見て、こっそりこの夜は来ていなかった常連客の一人に電話して「エリツイン」の名前を聞き出し、事無きを得た。ボクの昨今はこんな塩梅で、あきれるばかりだ。



現在ボクは化石発掘にまつわるドラマの執筆中である。岩盤に埋まっている化石を発掘するわけだから、それに使用する道具類もすべて取材してスタートしたのだが、一つだけ手を抜いた道具があった。岩盤を掘る砕岩機だ。しかし、これには理由があった。かつての作品に道路工事現場を登場させ、轟音を発してコンクリートを砕く砕岩機のシーンを描いたことがあるからだ。

そのシーンは「ふるさと」という作品のなかの「紅い雪」という一話だと記憶していた。で、先日その「ふるさと」を取り出し、目次をめくってみたのだが、「紅い雪」なるタイトルが載っていないことに気がついて、かなりあわてた。たしかに描いたはずなのに、目次に載っていないということはどういうことだろう。物忘れがひどい昨今なので、描かなかったドラマを描いたように勘違いしていたのだろうかと、一瞬自分を疑った。

やがて原因がわかってホッとした。ボクが目次を調べたのは中央公論社版の「ふるさと」だったが、単行本化に当って編集部が、ページ数の関係で一つのタイトルに三話をまとめてしまった。そのため「紅い雪」のタイトルページが抜かれて、タイトルのない一話となっていたのだ。

そんなわけで、久し振りに「紅い雪」を読んでみた。執筆時には、我ながらうまくいったという感触を記憶しているので、内心では気に入った作品の一つに位置づけていたが、読み返してもその位置付けに変わりなく、なかなかのものだった。

「紅い雪」は、東京の冬場の道路工事現場に働く労務者が登場するドラマである。労務者は、冬期の農閑期を利用して出かけた「ふるさと」の出稼ぎの男だが、寒風吹きすさぶ工場現場で砕岩機を握ってコンクリートを砕いている。・・・と、男は突如激しく振動する砕岩機を手離して倒れる。不意に脳溢血に襲われたのだ。男はほどなく息絶えるのだが、いまわの際に遺した一言が「おらが村さ紅い雪が降る・・・・」だった。

改めて読み直して驚いた。自分が描いた作品には違いないが、砕岩機の描写といい、舞台になっている道路工事現場が実にリアルに描かれていることだった。とたんに、その現場の記憶がよみがえって、あわてて原稿受渡帳を調べてみた。アップした原稿を出版社に渡した日付を記す帳簿だが、それには昭和60年(1985年)二月とあった。

もう二十余年も前に描いた作品か・・・という感慨もあったが、「紅い雪」を描くきっかけとなったのは、その前年の秋にわが家の周辺で行われた大がかりな下水道工事だった。連日砕岩機の音が響きわたり、ネームを取るのに大苦労をした記憶がよみがえった。もちろん、下水道が完備されることは住民にとっては素晴らしい住環境が整備されるわけで、しばしの我慢は住民として当然のつとめだろう。

そう考えたボクの脳裏にハッと閃くものがあった。

『まてよ、この光景を使ってドラマが一本で出来ないだろうか・・・・・』

ボクは、いつの間にかカメラを取り出し、必死にその現場をパチリ、パチリとやっていた。

それにしても、昨今は物忘れがひどい。こんな状態だから日記をつければ良いと思うのだが・・・子どもの頃よりその習慣が身につかない。困ったものだ。
金龍賞をいただく  更新日時:2007/02/11
2月4日から8日の日程で、中国・広州市に行って来た。広州市の漫友文化社が制定した中国初の漫画賞「金龍賞」の「海外漫画傑出貢献賞」にボクが選ばれ、その授賞式に参列するための旅だった。



とにかく、現在の中国は、もちろん少年少女たちの間ではあるが、大変なマンガブームである。一口に漫画といっても、その形式はいわゆる「日本式ストーリーマンガ」一辺倒と言っても過言ではない。

中国に日本式ストーリーマンガが定着したのは、ここ十数年のことだ。・・・が、その発端はアジアのどの国(例えば韓国、台湾、香港)もたどった経緯と同じで、日本マンガの新しいスタイルと、その面白さに着目したある筋の人たちによって翻訳出版された、いわゆる海賊版が発火点だった。粗悪だが安価な海賊版を手にしたアジア諸国の読者たちは一気にその虜となり、やがて見よう見まねでそのスタイルを取り込んで自作品を描く若者が出現し始めた。その先輩格が韓国であり、台湾であり、香港である。



中国のそれは、その先輩格よりかなり遅れた。おそらく、中国独自の国家形態と無縁ではないだろう。しかし入り口はあった。台湾と香港で中国語に翻訳された「日本マンガ」が、香港に近い広州や上海に徐々に上陸して行ったであろうことは想像に難くない。

広州は、中国大陸という広大な国土から見れば一地方都市に過ぎない。とは言っても広州市の人口が一千百万人というから、東京と大差ない。・・・が、そんな地方都市の出版社が中国初の「金龍賞」というマンガ賞を制定した経緯には、やはりここにマンガの炎が燃え上がり、中国全土に向けたマンガ基地が出来上りつつある・・・ということだろう。一出版社が制定した賞ではあるが、その協賛や支援団体には政府の関連機関を筆頭に、テレビ局、新聞社等五十余りの団体が名を連らねている。

その意味では中国唯一のマンガ賞であり、最も権威のある賞と言えなくもない。


今、中国で大人気のマンガ家・桃非拉さんと矢口のツーショット

ボクはその賞の「海外漫画傑出貢献賞」の栄に浴したわけだが、どんな貢献をしたかは認識がない。強いて挙げれば、中国の若いマンガ家たちとの交流に北京や上海に出かけたことが四~五回あったろうか。なかでも北京では2001年に、全土から六十名ほどのマンガ家志望の精鋭たちを集めた「マンガ教室」で指導を行ったことがある。もちろん台湾や香港でのボクの翻訳本が、中国の読者たちにいくばくかの影響を与えた。・・・ということもあるのかも知れない。

それにしても、広州市の一大名所でもある「中山記念堂」で挙行された表彰式の模様は、感想を一言で言えば、ここはホントに共産主義の国だろか・・・・と我が目を疑うほどだった。千五百人余のファンがつめかけた庭園には、長いレッドカーペットが敷かれ、その上を名前を呼ばれた受賞者が順次に歩きながら受賞会場に入る様は、まるでアカデミー賞の授賞式のようだった。

中国といえば、共産党一党独裁の社会主義の国である。だから、日本人にとっての中国は、国民は体制による一つの価値観にしばられ、それ以外の意見や考えは許されない・・・・というイメージが根強い。しかい、この訪中で、そのイメージは正しくないと痛切に感じた。おそらく、そうした日本人の抱くイメージは、文化大革命以前の中国を指しているだろう。今日の中国には、それが全く感じられなかった。

それを物語るのが授賞式の合間に行われたアトラクションにあった。ブレイクダンスあり、独自のオリジナル曲を演奏し歌うロックバンドありで、東京やソウル、台湾や香港のそれとなんら変わりがなかった。



経済が好調で、人々がやっと個人の幸福に気付き、それを謳歌している暮らしが見えた。もちろん、目に見えたものがすべてではあるまいが、人々がやっと自由にものが言える幸福に気付き、自分の心情を吐露し始めた・・・ということだろう。その心情の吐露のひとつが、「マンガ」ではないだろうか。そうでなければ、マンガがこれほどまでに若い層に支持され、同時に自分の心情の吐露とも言うべきマンガ作品を描こうとする若者が出現するはずがあるまい。

中国は確実に変わっている。経済の好調さがその裏側にあることは事実だが、誤解をおそれずに言えば、今日の中国には「共産主義」などもはや存在しない・・・という感を強く抱いた旅だった。
三平ファンの皆様へ  更新日時:2007/06/17
大変長いことお待たせしました。いよいよ「平成版・釣りキチ三平/Vol.6」が発売されることになりました。発売日は決っておりませんが、一昨日(6/15)編集部に最後の原稿を渡しましたので、七月中には発売されると思います。(決まりましたら、すぐにこのページで発表します)



とにかく、長い執筆の日々でした。Vol.5が終えて、休む間もなく「嘉兵衛」の続編に取りかかったのですが、描くほどにフラストレーションが募り、このドラマのどこが面白いのか描いている本人にもわからなくなりそうな日々でした。「三平」の命題は、何と言っても” 明朗釣りマンガ “です。しかし、その命題である「釣りシーン」の登場する余地のないドラマ展開がフラストレーションの最大の元凶でした。

こんな場合、マンガ家はいくつかの打開策を考えます。そのひとつが、かなり大胆な策ですが、停滞しているドラマを一旦中断して、気分転換に全く違う傾向の「読みきり」を一本はさむ・・・というものです。

そんなとき出合ったのが「ヤマガタダイカイギュウ」の発見にまつわるエピソードでした。昭和53年夏、山形県の最上川で実際にあった話です。

この夏、日本は全国的に異常気象に見舞われました。梅雨時もほとんど雨がなく、いつ梅雨が明けたのかもあいまいなままの暑い日が続き、異常渇水に見舞われたのです。東北屈指の鮎の名川最上川も例外ではありませんでした。豊かな水量を誇っていた流れは次第にやせ細り、いつもは川底に沈んでいた大きな岩盤もすっかり干上がって陸地に化す有様だったと言います。

その干上がった岩盤に挑んだ小学校六年生の2人の少年がいました。普段は水底に沈んでいるはずの岩盤が陸地と化したわけですから、おそらく2人の少年の心に未知なるものに対する冒険心がふつふつと沸いて来たのでしょう。炎天下の暑い岩盤上を渡っていた2人の少年。・・・と、その足元に巨大な動物の骨らしき化石が露出しているではないか・・・・!!!。

これが「ヤマガタダイカイギュウ(大海牛)」発見の発端でした。

このエピソードに出会ったのは、去年の八月も終ろうとする頃でした。・・・が、「嘉兵衛」の打開策を模索していたボクには強烈なインパクトを感じさせるエピソードであり、久しぶりに新作の意欲をかき立てられるもので、ただちに山形取材を敢行しました。(その経緯は、VOL.6の「あとがき」に記していますので、そちらをお読み下さい。)

そんなわけで「VOL.6」の目玉作品は、山形大海牛発見記をベースとした「御座の石」というタイトルの180ページとなりました。ご高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

もちろん嘉兵衛の「カヒの秘密編」もたっぷり描き貯めていましたので、同時に収載されます。一昨日、そのゲラ刷りが上って来ました。ゲラ刷りは、写植の打ち間違いがないか等々を慎重にチェックしながら読み進めるわけですが、毎度のことながら作者はこのゲラ刷りを読むことによって、初めて自分の描いた作品の全体像を客観的に見ることになります。

マンガ家は通常二割拡大した原稿用紙を使用して描きます。つまり、印刷され本になった場合は二割縮小され、描線も細く、絵も細密に見えるという効果があります。一方、作画は一ページ一ページバラバラに描くわけですが、本になった場合には左右に見開きになります。当然、構成の段階ではその効果も十分に配慮して進行するわけですが、それでも縮小され、見開いて見た時のゲラの感じは、原稿で見たそれとはかなりムードの違ったものになります。自分の描いた作品の全体像を客観的に見るというのは、そういうことです。

ところで「カヒの秘密編」を執筆中は、このドラマのどこが面白いのか描いている本人にもわからなくなりそうな日々でした・・・・と前に記しました。しかし、ゲラ刷りになり、見開いて客観的に読み進めていった結果、本人の口から言うのも気のひける話ですが、予想外に面白かったです。

発売まで今しばらくお待ち下さい!!
「御座の石」に寄せて、もう一言  更新日時:2007/06/19
こういう事は、あからさまに書くべきではないとは思うのですが、ホームページをのぞいて下さる皆様への特別のサービスとして、綴らせていただきます。

つまり、「御座の石」を描こうと思い立った動機です。

昨年(平成18年)は、まるで社会現象のように痛ましい事件が相次いだ年でした。いわゆる「いじめ」等が原因と見られる少年少女たちによる「自殺」が相次いだことは、皆様の記憶にもまだ新しいことでしょう。

そんな世情を踏まえて文部科学省が昨年、平成18年11月17日付で(社)日本漫画家協会宛におよそ次のような「要望書」を送って来ました。

- 要望書 -

最近、いじめなどにより子どもたちが自ら、その命を絶つという痛ましい事件が相次いで発生しております。また、いじめを原因とする自殺予告も後を絶たず、文部科学省においても、極めて深刻な事態であると受け止めております。文部科学省においては、これまでも「いじめは絶対に許さない」という認識を徹底するには、「命を大切にする教育」の充実を図るため、道徳教育や体験活動などの「心の教育」の充実や、学校、地域、家庭で連携したいじめの未然防止、早期発見、早期対応に向けた取り組みの推進、教育相談体制の充実等の施策を推進して来ておりますが、昨今の状況を踏まえ、いじめによる自殺が連鎖するということにならないよう、各学校、教育委員会における徹底した取り組みをお願いしているところです。(中略。)このためには、子どもたちが最も気軽に、身近にふれることの出来る「漫画」を媒介として伝えることが、最も効果的ではないかと考えます。

つきましては、ぜひ貴協会を通じて、こうした子どもたちのいじめや自殺防止をテーマとする漫画の掲載や「漫画」のなかでこうしたメッセージを盛り込んでいただくようご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

文部科学大臣・文部科学省初等中等教育局児童生徒課長

と言うものでした。

ところで、これまでの歴史を振り返ってみると、「マンガ」は文部科学省をはじめ教育の場では、常に誹謗中傷の的でした。特に暴力やセックスを扱った作品に対しては容赦なく、警告や排除の取締まりを強化することはあっても、マンガ界に協力を求めるケースはボクの知る限り皆無に等しいものでした。

例えば、ボクの子供の頃には学校にマンガ本を持ち込むことが許されず、
もし持ち込みが発覚するとたちまち取り上げられ、罰として廊下に立たされました。

また、PTA活動の一環として昭和30年代に起った「悪書追放運動」はあわれなものでした。マンガが悪書の最もたるものとされ、その作者の筆頭として手塚治虫がヤリ玉に上げられ、校庭に積み上げられたマンガ本に火を放たれ、焼かれるという過激な運動にまで発展したこともありました。

つまり、「マンガ」は教育の場では常に” 害虫 “のごとくに扱われてきたのです。

それが、一転して政府(文科省)より協力を要請されたのですから、この「要望書」は日本のマンガ界にとって画期的な意味を持つことになるでしょう。

しかし、だからと言ってマンガ家には、手離しで喜ぶ人はほとんどいません。
いや、むしろこうした政府当局の要望等には、正直言ってあまり協力的ではありません。その理由は、過去のさげすまれた歴史の経緯にもあるでしょうが、
「マンガ」というジャンルが生れた本来の精神にあります。

いかなる体制にも権力にも屈せず、それらをチェック批判して行くのが
「マンガ」の真髄であり、立場であるからです。

・・・とは言え、マンガ家に最も必要なものは一個の社会人としての良識です。その良識こそが作品を描くときの基本概念であり、社会に対する責任でもあります。

ところで、文科省より「要望書」が送付されたのは平成18年11月17日付でした。つまり、文科省は連鎖的に発生する思いもよらない痛ましい事件の連続に頭を悩まし、ついにはマンガ家にまで協力を求めたわけです。

しかし、ボクが「御座の石」の執筆を開始したのは、それより一ヶ月余りも前のことで、新聞やテレビでは痛ましいニュースに沸き返っている最中でした。

あまりに非人間的な騒動に目を覆いたくなる日々でした。もちろん、いじめる側に対する憤りは言うに及ばず、いじめられる側の「死にたい」と思うまでに追いつめられた恐怖感を思うとき、ただただ空しく、何かそうした少年や少女たちを勇気づけるメッセージを、自分の作品を通して発したいという気持ちの
昂りを覚えたのは、一人のマンガ家としての自然な流れでした。

つまり、「御座の石」という作品は、文科省からの要望があろうとなかろうと、いじめることや、それを苦にして自殺することは「くだらないことだ・・・!!」というボクのメッセージを込めた作品なのです。化石でも発見して、悠久の歴史に思いをはせたならば、いじいじした「いじめ」など、実にくだらないことだ・・・と言いたかったのです。
「お知らせ」  更新日時:2007/07/17
平成版「釣りキチ三平」VOL.6の発売日が、8月3日(金)と決りましたので、お知らせします。とにかく大変長くお待たせしました。


「相当変った人」  更新日時:2007/07/20
ボクには、歩きながら自分の歩数を数えるクセがある。ただし一歩で1カウントを数えると歩数が早や過ぎて、二桁以降のカウントがついて行けなくなるので、二歩で1カウントを数えることにしている。

こんな感じでプールには、ほとんど毎日歩いて通っているボクだが、わが家からプールまでの片道のカウント数がほぼ200である。つまり、歩数では400歩となるわけで、ボクの一歩を60センチとすれば、わが家からプールまでの距離がわずか240メートルとなる。

これは近い。だから、連日のプール通いもさほど苦にならずに続いているのだろうし、昨今では行かないと生活のりズムにポッカリと空洞が生じたような満ち足りない気分になる。

かつて、ボクはスポーツジム通いをしている御仁を、冷ややかに見ていた。
自分の健康を、時間とお金をかけて買いに行くなんて何と愚かな行為だろう・・・と考えていた。しかし、慢性的な腰痛(椎間板ヘルニア)と、運動不足からくる下腹部のたるみに抗し切れずに、騙されたつもりでジムへの入会に踏み切ったのが始まりだった。

入会したとはいっても、ボクは何でも試みるタイプではない。テニスも、ゴルフも、ウエイトトレーニング場もあるが、ボクはプールに下りてひたすら歩くだけである。前進と、後ろ向きに歩く水中ウォークを繰り返すだけである。

初めてプールを歩いた時、とても歩行が楽なことに気付いて感激した。
言うまでもない。いつもなら鉛をつめたように重かったボクの腰が、水圧による浮力を得て、実にスムーズに動いたからだった。

プールから上った後はサウナである。・・・が、サウナも初めはバカにしていた。
何度も出たり入ったりする御仁を見ながら、よくもあんなに熱苦しい小部屋にジッとしていられるものだ・・・と、あきれ顔でながめていた。しかも、汗だくに耐えた後に水風呂につかる御仁の姿は、ボクの理解の範囲を超えていた。しかし、ものは試してみるものである。今日では、サウナも水風呂もなくしては、夜も日も明けないボクである。



プールに通い始めて今年で六年になる。おかげで下腹部のたるみも、悪い腰に負担をかけていた体重も、十キロ余り減少した。プール様様である。

つい先日のことだが、プールにどこかで見覚えのある御仁が入って来た。メガネの人はメガネをはずし、スイミングキャップをかぶるのがプール内でのマナーだから、ちょっと見にはわからないケースもよくある。

例えば、ボクが入会したての六年前のことだが、ドリフターズの「故・いかりや長介さん」が来ていた。「いかりやさん」は、ボクと同じくプール党で、しかもひたすら水中ウォークを繰り返すだけの御仁だった。ところが、プール内では常に白いキャップをすっぽりと耳まで隠すようにかぶっていたので、初めは「いかりやさん」だとは思わなかった。しかし、プールから上り、お風呂場で頭を洗っているのを見て、「いかりやさん」であることを知った。髪を洗ってさっぱりした、その薄毛の具合が、まさに「いかりや長介さん」そのものだったからである。

どこかで見覚えのある御仁もやがてわかった。洗面場のドライヤーで髪を乾かし、メガネをしたら、将棋界最強のチャンピオン「羽生善治名人」(現在は何冠を保持しているのだろうか)だった。

ボクがジムを出た時、その「羽生さん」が数歩前を歩いていた。もちろん初対面だから、お互いに会話を交す仲ではない。・・・がその後ろ姿を見ながら、ボクは不思議な心境にかられていた。その歩調からして、いかにも「次の一手」を考えているように見えたからである。

そしてつくづく思った。
『世の中には随分変った人がいるが、この人は毎日将棋ばかり指して暮らしているんだろうなァ・・・・』・・・が、次の瞬間思わず僕は苦笑いをしていた。

『そういうお前自身も相当変っているじゃないか。毎日マンガばかり描いて暮らしているんだから・・・』
記憶の穴/NO,1 「栴檀」  更新日時:2007/08/01
『栴檀は双葉より芳し』という、古くよりの言葉がある。

栴檀とは「ビャクダン」の異称だが、とても香り良い香木である。
つまり、そんな香木は、発芽したての双葉の頃から既に香気があるように、大成する人は子どもの頃から並はずれている・・・という場合に用いる言葉である。

そんな名言がボクに当てはまるとは思っていない。しかし、ボクは自分で言うのもおこがましいが、正直言って子どもの頃から絵がうまかった。

そんなボクが高校に入ったのが昭和30年である。小学生だった頃から、大きくなったらマンガ家になりたいと夢をはせていたボクだから、高校に入ったらまず「美術クラブ」に入ろうと思っていた。しかし、皮肉なことにわが校には「美術クラブ」がなかった。美術を指導する先生がいなかったのだ。

仕方なく、ボクは「書道クラブ」を選んだ。文字も絵も美的センスがなければ上達しないし、「書道」といってもやっていれば、いつかはマンガに役立つだろう・・・という程度の考えだった。幸いなことに、書道の先生はもちろん教師ではあったが、その実態はプロの書道家だったので、ボクはたちまちその道の虜となった。

わずか三年間の高校生活だったから、どれほどの修練になったかは疑問だが、
三年生の年には高校の部で三段の位を得ていた。

そんなボクが、マンガ家となって大きく得をしているのが、「書道」をやった事である。第一、筆を持つことが全く苦にならない。人間、体験して損になることは、おそらく一つもないだろう。ただし、何かのはずみで人を殺したり、交通事故の加害者となることだけは、生涯を通じて体験したくはない。

最後に、この頃にちなんでボクが書いた「書道」の一端を披歴しよう。「マタギ」や「オーイ!!やまびこ」等の単行本のタイトル文字も少なくないが、看板の文字も多くデザインしている。





なかでも気に入っているのは、郷里秋田の温泉施設「さわらび」の文字であついでに言えば「増田まんが美術館」もそうだし、宮城県登米市の「石ノ森章太郎ふるさと記念館」もボクのデザインである。





生れつき文字が下手だと言って、パソコンにばかり頼っているキミ。とっても美人で、笑顔の美しいあなた。
その書いた文字がカナクギ流のそれだったら、一ぺんに興ざめしてしまうではないか。

文字の美しさは、人格の表れでもあるのだ。
記憶の穴/NO,2 「トランペットの執念」  更新日時:2007/08/14
音楽をやっている友人が何人かいるが、彼等は一様に「絵の描ける人がうらやましい」という。しかし、逆に絵を描く人のなかには、音を自由に操つれる人をうらやましく思っている人が少なくない。

なかでもボクは、楽器を自在に奏でることの出来る人がうらやましくてならない。テナーサックスや津軽三味線とまではいかなくても、せめてギターぐらいは人前で、スタンダードな曲の2,3曲は弾けたらいいのに・・・・と何度も思ったものだ。

高校二年の年(昭和三十一年)だったと記憶する。わが校(秋田県立増田高校)に、初めてブラスバンドが導入された。戦後間もないという時代背景を考えると、その必要性に迫られての導入だったろうが、予算面では苦しい財源からの捻出だったらしく、ブラスバンドとしては最小の編成だった。シンバルと大太鼓、小太鼓のリズム打楽器の他には、木管のクラリネット、金管のトランペット、バリトン、バスのたったの六人編成だった。

校内に、ブラスバンド部員の応募があったので、ボクは真っ先に手を挙げた。
何か、楽器のひとつぐらい奏でてみたい・・・と思っていたからだ。・・・が、応募したのは定員ギリギリの人数だった。しかも、真新しい楽器を前にして、シンバルと太鼓意外は、音を出せるものが一つとしてないというボクらだった。

やがて、学校に一人のいかにも芸術家らしいタイプの男がやって来た。日管(たぶん日本管楽器という楽器のメーカー)の指導員と称する男だった。男は、応募したボクらを前に、いきなりこう言った。

「まず、自分のやってみたい楽器を言ってみろ」

ボクは、すかさずトランペットを指さした。それが、楽器のなかで一番カッコ良く見えたし、楽団の花形的楽器であるぐらいの知識は持っていた。つまり、言葉を換えて言えば、ブラスバンド部員に応募した理由は、ただひたすらトランペットを吹いてみたい・・・の一点だった。

男は、ボクの顔を見るなり、口を真一文字に横に開いて「ニッ」と歯を出して見せろというしぐさをした。もちろんボクはそれに従ったが、一瞬にして答えが返って来た。

「ダメだ。残念だがキミはペット吹きに向いていない」・・・だった。

いきなりそう言われて、ボクはすっかり面くらった。いや、面くらったというよりも、ガクゼンとした。が、やがてその理由がわかって、納得せざるを得なかった。ボクの歯並びに問題があったのだ。

ボクは、子供の頃より歯並びの悪い人間だった。一般に前歯には左右に一対の犬歯(糸切り歯)があり、その犬歯と犬歯の間に四本の門歯が並んでいる。ボクには、その門歯が三本しかなかった。もともと四本あるべきスペースに三本しか生えていないわけだから、子どもの頃より隙っ歯で、その隙間をカバーしようと三本のうち真ん中の一本がデーンと居座り、さらにその一本が前面に反り返っていた。いわゆる隙っ歯の、反っ歯だったのである。

これでは、楽器を奏でる以前の問題で、プロの眼からは不適格と判定されても致し方のないことだった。つまり、トランペットは最も高音を発する金管楽器だから、そのマウスピースは小さく、そこに唇を固くすぼめて、強く息を吹き込まなくてはならない。ところがボクの場合、その反り返った一本の前歯が邪魔をして、唇がマウスピースにぴったりとフィットしなかったのだ。

かくして、ボクに与えられた楽器は「バリトン」だった。バリトンは、トランペットより音程が一オクターブ低い楽器で、マウスピースもトランペットのそれよりも一回り大きく、ボクの唇もどうにか収まって、そのセクションを担当することとなった。しかし今にして思うのだが、ここにはきっと日管指導員の恩情が働いていたに違いない。若きボクの夢を無残に砕かざるを得なかった埋め合わせとして、せめてバリトンぐらいは吹かしてやろう・・・という恩情だったのだろう。

それにしても、指導員の男の実力はすさまじいものだった。一般に金管楽器は音を出すだけでも大変である。それを、どの楽器もいとも簡単に奏でて見せた。

トランペットも、バリトンもバスも、それぞれ一オクターブずつの音程の違いはあるが、三本のピストンで音階をつける楽器である。だが、基本は解放(ピストンを使わないこと)のまま「ド、ソ、ド」と吹くことである。これが出来るまで一時間余りを要したろうか。その音がどうにか定まったところで、いよいよ三本のピストンを使って音階をつけることになる。

しかし指導員の男は多忙を極めていた。わが校の指導時間は半日余りというスケジュールで、結局「ド・レ・ミ・ファ・」の音階がどうにかつけられるようになったところで、「ユーダカス・マッカベウス」という曲(スポーツ大会などの表彰式で勝者を称えるあの曲)を合奏させたっきり帰ってしまったのだ。

残されたボクらは途方にくれた。「ド・レ・ミ・ファ」はどうにか奏でられたが、その音階の半音の上げ下げをする術も教えてもらわなかったし、楽譜の読める人間など一人としていなかった。加えて、音楽の先生はブラスバンドには全く無頓着で、非協力的だった。つまり、学校はブラスバンドの道具は揃えたものの、その指導や運用推進にまでは手が回らなかったのだろう。

仕方なくボクらは、それまでに耳で暗譜した曲(校歌や応援歌、スタンダードな唱歌や童謡など)を、まさぐりながら練習するしかなかった。楽譜にドレミの仮名を振り、半音の上げ下げは耳で暗譜したその音が出るまでピストンの組み合わせを手さぐりで見つけ出す以外になかった。

それでも、秋の文化祭のステージでは、どうにか校歌を含めた十曲ほどの演奏を披露することが出来た。が、どの楽器も同一のメロディを、同時に奏でたに過ぎなかった。指導する先生もなく、同好会的なスタートだったことを思えば、致し方のないことだった。しかし、そんなスタートを切ったわが校のブラスバンドも、今日では大編成(40~50人以上)となり、全日本吹奏楽連盟のコンクール・東北大会では優秀賞に輝くほどに成長しているという。半音の上げ下げを、自らの耳と指でまさぐった時代を思うとき、ただにうれしい限りである。

こうして、ボクのトランペットへの夢ははかなく消えたかに見えた。しかし、どこかに蛇のような粘着質な執念を持っているボクである。その執念が再び鎌首をもたげたのは、卒業して、銀行マンとなった五年後(二十三歳)のことだった。

その頃、ボクはラテン音楽にシビれていた。ペレスプラードが大人気で彼等の「マンボNO5」や「セレソローサ」等を聴くと、ひとりでに身体が踊った。言うまでもない、ペレスプラード楽団の演奏するトランペットの妖し気な響きに
すっかり魅了されてしまったのである。もちろん、身体的に不適格であることは百も承知していた。が、どうしても、一度だけでも思いっきり吹いてみたいという心境にかられていた。

銀行の隣に本屋があり、その本屋の奥が楽器店になっていて、たまたま立ち寄ったところ、ひょいと一本のトランペットが目に飛び込んで来た。気がつくと、ボクはそのトランペットの前に呆然と立ち尽くしていた。

「欲しい・・・・!!」

若さというヤツだろう。ボクはその楽器店に何度も足を運んでいるうちに次第にその欲望を押さえ切れなくなって、ついにその年の暮れのボーナスの大半をはたいて買ってしまった。一万二千円ぐらいだったと記憶する。大感激だった。さあ、高校時代に果せなかった夢よもう一度である。ピストンの押し方は全く同じだったから、ちょっと練習すれば何とかなるだろう。そう思っただけで心が躍った。

しかし、わが手に握りしめてたちまち後悔した。これも若さの為せる失態だった。なにしろトランペットの音は大きく、おいそれと吹く場所のないことに気付いた。ミュートという消音器のあることを知ってただちに購入したが、その程度のことで間に合うシロモノではなかった。学校ならば思いっきり吹くことも出来たが、一般社会のなかではあまりに迷惑となることを知ってガクゼンとした。

結局、当面はマウスピースだけを持ち歩き、それを唇に当てて空吹きする日々が続いた。そんななかで二度だけ吹奏を試みたことがある。一度は夏の河原で、もう一度は帰省した実家の裏山の山中で、である。しかし、これもほんの4,5分でやめた。朗々とピストンの押し違いもなく、あのペレスプラードの「セレソローサ」を吹奏出来たのなら、半日でも終日でも吹いていただろうが、ギクリギクリと引っ掛ってばかりでは、山のカラスにも笑われそうに思ったのである。

ボクのトランペットへの挑戦は、こうして儚く終った。当然、そのトランペットは青春の残骸として、わが家の押入れのクズという運命をたどることとなった。そのクズが陽の目を見たのは、それから五年後のことだった。

ボクの母校の中学校にブラスバンドが誕生したのである。その話を聞いたボクは直ちに中学校を訪れ、後輩たちのためにと寄贈したのである。

もちろん、ボクの行為は学校当局や生徒たちから感謝されたことは言うまでもない。クズで終わっただろうトランペットの運命を、人様の役に立つ運命に変えたボクの気分は、爽快そのものだった。

しかし、その翌年そのトランペットが予期せぬ惨事に見舞われようとは、想像だにしなかった。学校が火事になってしまったのだ。心ない生徒の火遊びが原因で体育館が全焼し、ボクのトランペットばかりか、購入したばかりの全ての楽器も焼失してしまったのである。最寄の支店に勤務していたボクは驚いて駆けつけたのだが、焼け落ちる体育館を目前に、言葉がなかった。以上がボクのトランペットにまつわる想い出である。

最後に、ボクの作品の中にトランペットを素材とした作品が二つある。デビューして間もない1971年に発表した読みきり短編「泣き虫ペット」(希望の友/潮出版)と「釣りキチ三平」のなかの一話「結婚披露宴招待状の巻」がそれである。どちらも、若き日にトランペットにかけた情熱を想い出しながら描いたものだが、「三平」の一話では川原でペットの練習をする若者の姿が描かれている。

まさに、ボクの青春の一ページから発想したドラマである。
記憶の穴/NO,3 「えふりこぎ」  更新日時:2007/08/28
何のコラムだったのか忘れてしまったが、ボクは高校時代に「アダルト・チルドレン現象」に見舞われ、その頃の記憶がスッポリと脱け落ちている・・・と告白したことがある。

見舞われた原因はその一文に詳しく記したのでここでは省略するが、とにかく不思議と言う以外にはない。高校時代の三年間の記憶がどこかへ吹き飛んでしまって、まるで脈絡がないのだ。

ボクはこれまでに「エッセイマンガ」と銘打って、自分の生い立ちから幼年期、少年期、そして青年期までを自伝的に作品化して来た。「オーイ!!やまびこ」、「蛍雪時代」、「9で割れ!!」の三部作がそれだ。「オーイ!!やまびこ」は幼年期から小学生時代。「蛍雪時代」は中学生時代。そして「9で割れ!!」は高卒と同時に入行した銀行マン時代の青春記で、これらは全てが実体験であり、その記憶をたどりながら作品化したものである。

もうお気付きのことだろう。この流れのなかで高校時代が欠落していることを。記憶を頼りに、これほどまでに克明に少年時代や青春時代を描写したボクが、「高校時代」のことにはほとんど触れていない。一にかかって「アダルト・チルドレン現象」の成せる技である。

しかし、最近それでいいのか・・・・?と思うようになった。欠落した記憶はいかようにもし難いが、どうにかしてその穴を埋めることが出来ないものだろうか。

そのためには、まず断片的にでも残っている記憶を抽出してみよう。そうすれば、もしかしたら欠落した穴を埋めることが出来るかも知れない。

そう考えて「栴檀」と「トランペットの執念」の二文を書いた。つまり、今回はその記憶の穴の第三弾目ということになる。

秋田には、古くよりその県民性を言い表わす言葉に「秋田のえふりこぎ」がある。「えふりこぎ」とは、人前でいい振り(つまり、格好つけたふるまい)をする、という意味で、秋田県人には古来よりそうした気風がある・・・というのだ。

例えば例を上げてみよう。日頃は常に斟酌で、控え目で、決して人を押しのけて先頭に立つなどとは考えられない御仁がいたとしよう。それが、仮りに酒席だったとしても常に末席に座し、控え目に周囲に習って手拍子ぐらいはするが、陣頭に立って歌う姿など誰にも想像出来ない御仁がいたとしよう。そんな御仁が、どうしても歌わなければならない場面に立たされた。周囲はほとんど期待していない。風貌からして、下手は下手なりに秋田民謡の一曲ぐらいは歌えるかも知れない。

しかし、スックと立ち上がった御仁が、胸のあたりに手を組んだかと思ったら、見事なテノールでシューベルトの「菩提樹」を唄ったとしたらどうだろう。周囲はその落差に唖然とするだろう。こいつ、いつの間にこんな芸を身につけていたのだろうと・・・感激を通り越した驚嘆の声に変るだろう。いつの日かに備えて、陰で、人知れずトレーニングしていたのだ。これが「えふりこぎ」の例であり、雪深い秋田の人々が持つ気質の一つでもある

ボクにもそれがある。ボクはマンガ家である。つまり、マンガという表現形式を通じて、自分の考えや生き方、あるいは物事の価値感といったものを読者に訴える仕事をしている。言い換えれば、モロに自分の生き様をさらけ出して生きている人間である。

しかし、こんな仕事をしていながら、自分の苦しむ姿や弱点を、決して他人に見られたくない。ネーム(ストーリーやセリフ等)は基本的には自宅の書斎にこもって採る。この作業こそがマンガ家の生命線と言えるわけだが、当然のことながら厳しい集中力を必要とするし、莫大な資料も必要とする。だが、その姿を他人には断じて見られたくない。それは、側近のスタッフにさえも見られたくないし、特に編集者には見られたくない。

「センセイはやっぱりすごい。どんな資料をもとに、どうやってこんなドラマを紡ぎ出すのだろう。まったくすごいヨ・・・・!!」

と、唸らせたいところから発している。まさに「えふりこぎ」である。

その気は小学生の頃に既にあった。学芸会で「劇」を演ることになると、ボクはほとんど主役に抜擢された。しかし、そのセリフを暗記する姿を、例えばおふくろにさえ見せたことがない。

人のいない屋根裏部屋とか、裏山の木立のなかで密かに暗記した。
つまりおふくろは、家では素振りも見せないボクが、学芸会では堂々たる主役を演じているのを見るわけだから、その驚きはどんなものだったろう。既にして「えふりこぎ」である。

高校では毎年春と秋の二回「校内弁論大会」なるものが行われた。ボクが、クラス代表としてその弁論大会に出場することになったのは高校一年の秋のことで、ホームルームで推薦されてのことだった。
小学校の頃もそうだったが、中学校でも演劇クラブに属し数々のステージを踏んでいたボクなので、
人前で話すことはこれと言って苦手ではなかった。問題は弁論のテーマをどうするかだった。
が、原稿は思ったほど苦労することもなく、一晩で書き上げた。「最近のマンガの傾向」と題する一文で、ボクが常々思っている得意のジャンルだった。

ひとつ気がかりなことがあった。それは、当時の学校教育の場では「マンガ」は下劣なものとしてタブー視されていたことと、暴力シーン等が問題視され、各地のPTAなどから悪君追放のヤリ玉に上げられていたことだった。
しかし、ボクにとってはそんな世情こそがこの弁論の重要なテーマとして、実に好都合だと直感した。マンガを否定する教育の場で、「それでもボクはマンガが大好きだ」という論陣を張ることにためらいはなかった。

さて、弁論原稿の暗記である。これはお手のものだった。ボクの家から高校までは片道20キロの山道で、自転車通学だった。しかし、行きは下り勾配の連続で、ペダルはあまり踏まなくて済むが、帰りはお尻をハネ上げ、ハンドルに胸がつくほど踏まないと進めない坂がいくつも続いている。おまけにトラックの轍が至るところに立ちはだかる砂利道だったので、往復に二時間余りを要した。

この学校の往き帰りこそがボクの予習復習の場だった。轍だらけの砂利道ではあったが、通い慣れるとどこにくぼみがあり、どこに石の出っ張りがあるのかわかるようになる。
つまり、その往き帰りの自転車上が暗記の場だったので、ボクは、なんなく諳んじることが出来たし、ジェスチャーを加えるゆとりさえあった。つまり、先生にも、クラスメイトの一人にさえも、そのプロセスを知られることなく、弁論大会の当日を迎えた。

一学年が三科(普通科、農業科、家庭科)の高校だったので、当日出場の弁士は九人いた。
ボクの順番は何番目だったかはすっかり忘れてしまったが、ほとんど上ることもなく、思い通りの弁論が出来た。そして、結果は堂々たる第二席の栄に浴していた。優勝は普通科三年の先輩だったし、一年生が上位に食い込んだ例はほとんどなかったので大建斗と言えた。なかでも、審査に当った先生達の後評では、「マンガ」という素材を用いたアイディアが画期的だった・・・と高く評価されたことが最高にうれしかった
記憶の穴/NO,4 「不参加だった修学旅行」  更新日時:2007/09/10
高校時代の想い出は「・・・」というアンケートを採ったならば、きっと「修学旅行」が上位にランクされることだろう。しかし、残念ながらボクは参加していない。理由は、ただただ家が貧しかったことに尽きる。

入学したのは昭和三十一年である。当時の授業料が、生徒会費等の諸雑費を含めて月額千二百円ぐらいだったと記憶が、その支払いにも窮する家系だった。
だから、ボクは入学するや直ちに日本育英会に奨学金の借入れを請申した。
請申に対する審査は、たぶん中学時代の成績や、日頃の行動等が目安とされたことだろうが、特に問題はなく、ほどなく受理されてボクは奨学生となった。
借入金は月額千円(二年生からは千五百円)になった。授業料の大半は、これによってまかなわれたので、家計に対する負担はかなり軽減されたろう。もっともその奨学金は、社会人(銀行マン)となってからのボクの肩にのしかかって来るわけだが・・・・・。

月々に支払う千二百円の授業料のなかには、生徒会費の他にいくばくかの修学旅行の積立て金も含まれていた。つまり、不参加となれば二年間積み立てたそれが返還されるわけで、クラスのなかにはボクと同じ不参加者が4~5人はいた。そんな時代だった。

参加していないわけだから、何泊何日の日程だったかは記憶にないが、目的地は京都、奈良だったことは覚えている。きっと、楽しい旅行だったろうし、いい思い出になったことだろう。

しかし、大半のクラスメートが楽しい修学旅行を満喫している陰で、不参加のボクらに課せられたのは1自習であった。ボクら数人は毎日登校し、自習という空虚な時間をつぶしていたのだ。まあ、修学旅行も教育の一環であり、授業と同一だと考えれば、それも致し方のないことだった。

だからと言って、ボクは自分のそんな立場を恨んだりはしなかった。当時の進学率は25パーセント程度の時代だった。つまり、中学生の四人のうち三人が義務教育を最後に実社会に巣出って行ったことを思うとき、高校生活を送れている自分が、何と恵まれた境遇だろうと、ただただ感謝の念で一杯だった。

こうして、ボクの修学旅行は不参加に終った。そして、帰って来たクラスメイトの土産話に耳を傾けることとなったのだが、思わぬ事態が二つ発生した。

その一つが、ある新聞記事でスッパ抜かれた一件だった。わが校の修学旅行の目的地は、いつの頃からか京都、奈良が定番となっていた。そして、宿泊先の旅館では、これも伝統的に、夜の会食の席に舞妓さんを呼ぶことが恒例となっていた。

スッパ抜かれた一件とは、これだった。いやしくも、教育の一環として行われる修学旅行の席に舞妓さんを呼ぶとは何事か・・・という論調の記事が写真入りでデカデカと掲載されたのだ。県立高校ではあったが、片田舎の小さな高校だった。飛び抜けて強いスポーツもなく、甲子園の地区予選では一回戦で敗退という程度の記事でしか扱われることのなかったわが校が、大々的に新聞紙面を賑わしたわけだから、校内のショックは小さくはなかった。ただ、不参加だったボクには、少なくとも責任の一端はまぬがれているだけに、高見の見物的な気楽な気分でこの騒動をながめた。これに対して学校側は「社会探訪の一環だった」と苦しい言い訳けに終始したが、誰の目にも説得力に欠けるもので、この「探訪」は翌年以降廃止された。

二つ目は、校内での秘密事項だったのでさすがに新聞記事にはならなかったが、この修学旅行で4~5人の男子生徒が停学処分を受けた。旅館で、隠れてタバコを吸っているところを見つかった、というものだった。

喫煙は、いつの時代のどこの中高等学校でも繰り返される「思春期のハシカ」のようなものである。今日では、飛行機も電車も、ホテルやレストランでも、タクシーでさえも禁煙化が進む時代である。しかし、ボクらの時代は「二十歳になれば、堂々と酒もタバコもOK」というのが合言葉であり、大人のステータスだった。だから、少し先を急ぐ少年も少なくなかった。

不参加ではあったが、そんな二つの騒動もあって、ボクの修学旅行はある意味想い出深いものとなった。
「自分の顔」  更新日時:2007/09/21
ボクの机には小さな鏡が一つ常備されている。

もちろん鏡だから自分の顔も写るわけだが、それが目的ではない。例えば、三平が竿を握っている手元を描こうとする。平凡なアングルならばもう何通りものパターンを描いて来ているわけだから頭でイメージしながら描くことも出来るが、ちょっとこれまでになかった構図で描こうとすると、それはイメージ通りにはいかない。そんな時には当然本物の竿を取り出し、自ら握りしめてイメージを演出することになる。しっくりと手になじんで、しかも竿の重量感を感じさせる握りになっているか等々と・・・・。

しかし、ボクは右利きだから右手で竿を握り、そのイメージを完成させた後竿を置き、さらに、右手にペンを持ち替えて、いましがたイメージした通りに描くのはなかなか難しい。

鏡が役立つのはこんな時だ。左手で竿を握り、それを鏡に写せば鏡の中の画像はたちまち右手になっているわけで、それを見ながらペンを持った右手で悠々とスケッチすることになる。鏡のちょっとした利用法というわけだ。

ところで、こんなことをやっているとフと気付くことがある。それは、ボクら人間は自分の顔を常に逆に記憶している・・・ということになりはしないか。毎朝のようにのぞく鏡の中の顔を、それがあたかも「自分の顔」として記憶して疑わない。だが、それは事実ではない。鏡に映る自分の顔は、左右が逆に映っているのだ。

それを実感したのは、もう二~三十年前のことだがテレビ出演をした時おことだ。
スタジオ内でのトーク番組だったが、目の前にモニターテレビがあった。
つまり、出演者のボクが、モニターに映る「自分の顔」と正対する形になっていた。・・・と、ボクはそのモニターに向って思わず声を出しそうになっていた。

「ボクの顔が逆に映ってる・・・!!」と。モニターの顔が、いつも鏡で記憶している「自分の顔」と逆になっている錯覚に陥っているのだ。

しかし、その収録も終え、放映された番組を観ても、録画したものを再生して観たときも、錯覚ははいつの間にか消え、いつもの自分が出演していることに何の不自然さも感じなかった。
不思議である。

だが、この不思議は誰でも体験しているはずだ。写真に写った自分の顔を、逆に写っていると感ずる人はまずいない。

と言うわけで、机の鏡の一件を記してみたが、つい先日、その鏡に映った自分の顔を気まぐれにスケッチしてみた。似顔絵は全く不得意なボクだが、わりかしうまく描けた様で、近況としてアップしてみた。
ちなみにスタッフに見せたところ「随分若く描き過ぎてる」が感想だった。そうかなァ・・・・・。



「達感」  更新日時:2007/10/02
この間もフッと思ったが、この頃のボクはあまり喋らなくなった。

例えば、気心の知れた友人と酒場で飲んでも、当たりさわりのない会話や、その場の雰囲気を壊さない程度の合い槌は打つが、あまりのめり込んだ、熱い話はしない。特に、最近のマンガについての話になると、言いたいことは山程あるのだが、ついぞ当たりさわりのない話に留めてしまう。

若い頃は結構饒舌だった。不条理な政界の話題や愚劣な犯罪が起こると、ビシバシ批判の鉾先を向けたし、とんがりもした。

とは言え、ボクという人間は元来争い事の嫌いな人間である。ここは、一歩下がっておけば事は丸くおさまると考えると、穏やかな方向を選ぶタイプである。芥川賞作家の町田康をバチンとやったロックの布袋某の様なことは絶対にあり得ない。とても、そんな腕力もなければ、度胸もない。

それにしても喋らなくなった。喋ることが億劫でたまらない。・・・かと言って気力が無くなったとは思っていないが、不思議と正義感を振りかざそうという気も起こらないし、怒ることもなくなった。

歳だろうか・・・・。それとも「達感」の境地に達したのだろうか。「達感」とは、物事の真理や道理を見極めて、何事にも動じない心境に至ることだと言う。もしそうだとしたら、確かに世情の憂さに一喜一憂することはないだろう。

しかし、そんな人間がいるとすれば、それは「聖人君子」や「仙人」と呼ばれる人だろう。それならいい。でも、どうもそうではないらしい。

つい先日、編集者との打ち合わせで新橋で待ち合わせた。待ち合わせの目印は駅前の宝くじ売り場の前だったが、折りからサマージャンボの宝くじが大々的に売られていた。その売り声につられて、ボクはついそれを30枚程買ってしまった。

「達感」と言うのならこの行為をどう説明したらよいのだろう。
記憶の穴/NO,5 「優等生」(前編)  更新日時:2007/10/17
今日の学校教育の場に「優等賞」なる表彰制度があるのだろうか。ふと、そんな疑問にかられて、2~3年前まで現役の高校生だったスタッフの一人に聞いてみた。返って来た答えが「なんですか??それ・・・」。どうやらないらしい。

「優等賞」とは、成績が優秀で、日頃の行いも模範的な生徒を表彰するシステムで、その栄に浴した生徒は「優等生」と呼ばれる。それが、今日無くなったということは、民主主義教育が進むなかで、生徒にランク付けする事は人間の平等の原則に反する・・・とする論拠によるものだろう。

ボクの頃は厳然としてそれがあった。小学校にも中学校にも、そして高校にもあって、ボクはその三つの過程で常に「優等生」を通した。だからと言って、本コラムではそんな自分の自慢話をしようというのではない。ひたすら自分の「記憶の穴」を埋めようと、このコラムを執筆しているだけである。ただ、一つだけわかって欲しいことがある。「優等生」には「優等生」の悩みがあったということを・・・・・・

仮りに、今日の学校教育に「優等賞」なる表彰システムが無かったとしても、クラスの中で誰が一番頭が良くて、成績が優秀であるかは、おおむね衆目が一致するところだろう。小学校や中学校における「優等生」は、そんなところで決ったように思う。クラスの委員長や副委員長の選挙をやれば、決って「優等生」に票が集中したし、それでこれと言った不都合はなかった。

ボクは、たまたま小学校一年生で「優等生」にまつり上げられ、以降中学三年生まではそれが「定位置」として、さほどの疑問を抱くことなく過ごした。

いや、疑問がないわけではなかった。なにしろ小、中学校は義務教育である。加えて、片田舎の小さな学校の、限られた人数のなかでの「優等生」である。そんな「優等生」の真の実力とはどんなものだろうか。
・・・・という疑問だった。

その「真の実力」が試される時がやって来た。高校への進学がそれだった。高校と一口に言っても、そこには「偏差値」と呼ばれるランクがある。当時「偏差値」なる言葉があったかは知らないが、少なくとも県都の進学校に比べたら、わが校のレベルは決して高くはなかった。・・・が進学率25%の時代である。言葉を換えて言えば、各中学校の向学心に燃えた四分の一の生徒が、入学試験というハードルを突破して集結したわけだから、義務教育のそれとは自ずと違うことは言うまでもない。とは言え、ボクの高校生活は50年も昔のことである

とにかく念願が叶って、ボクが高校生としての第一歩を踏み出したのは、、昭和三十一年四月だった。そして、正直に明かそう。ボクが高校生として密かに掲げた目標は、小、中学校を通じて保持して来た「優等生」のタイトルが、どこまで通ずるのか。それへの挑戦だった。こう記すと、「下らない」と一笑に付す御仁もいるようだが、まあ、そんな目標も無いよりはましだとして、以下をお読みいただきたい。

わが校(秋田県立増田高等学校)の「優等賞」の基準は、それまでの小、中学校のそれとは比べものにならない程厳しく、生々しいものだった。ズバリ「中間、期末テストの平均点が90点以上を『優等賞』とする」だった。すごい話だろう。

当時の主要教科は、国語、解析(今日の数学)、英語、一般社会(今日の社会科)、物理(今日の理科)の五教科だったが、他に体育、音楽、そして選択科目で人文地理と歴史(日本史、世界史)があったと記憶する。その全てのペーパーテストの成績を合算した平均点数が90点以上とは、すこぶる至難の技である。しかも、通信簿(通知表)の採点欄には、その点数がモロに表記された。もちろん、その点数には平常点(日頃の生活態度)も当然加味されてはいたが、何とも生々しく残酷な評価方式とと言わざるを得ない。

ボクは、一年生でさっそくこの障壁に悩まされた。ボクの最大の県念は「体育」だった。いえ、筆記による保健体育は問題ではなかったが、実技で採点されると体の華奢なボクには実に不利だった。

例えば、一年生での実技はソフトボールの遠投だった。こんなことで採点されたら、野球部や体力に優れた生徒にかなうはずもなく、ボクに下された評価は「60点」だった。まいった。・・・これでは、たったの一教科で30点ものマイナスである。主要五教科全てに96点を採ったとして、やっと埋め合わせのつく厳しい点数である。

結局、ボクには常に「体育」の点数が大きくのしかかり、一年生の最終成績が89.6点に終った。が、天が味方したのだろう。何と四捨五入という救済措置に拾われて辛くも「優等賞」に滑り込んだのである。

自分で言うのも気のひける話だが、いわゆる「実力」が証明されたわけで、
ボクは大きな自信を持つことになるのだが、同時に反省点も浮き彫りとなった。「体育」だけはいかんともし難いが、、他の教科をもう2~3点底上げする必要を痛感した。
記憶の穴/NO,6 「優等生」(後編)  更新日時:2007/11/01
二年生でのそれは、今日でも夢を見ることがある。それ程口惜しいアクシデントに見舞われたので、忘れることが出来ない。

二学期の中間テストも迫って、その対策も怠りなく進んでいた。しかし、そんな最中にボクの体に異変が起きていた。テスト勉強に入る直前に親類のお祭に招かれ一泊したのだが、そこで南京虫に咬まれたことが原因だった。当時は、まだまだ貧しい時代で、ノミやシラミや南京虫が人々の生活を悩ましていた。
とにかく掻い。掻かずにはいられない。掻けば、当然そこには描き傷が出来る。
おそらくその傷口からバイキンが入ったのだろう。ボクの太ももの付け根がポッコリと腫れ出したのは、それからほどなくだった。ボクの郷里では、これを「エゴネ」と呼ぶ。要するにリンパ腺に病原菌が入り、リンパ節が腫れる「リンパ節炎」である。蚊やブヨ等に刺されることが日常茶飯事だったので、子どもの頃は何度も「エゴネ」を腫らした・・・が、たいていは2,3日で治った。リンパ節に病原菌を退治する抗体が生れ、自然に治ったのだ。

しかし、この度は様子が違っていた。腫れはいっこうにひかず、痛みは次第に増して、ついには通学する自転車のペダルを踏むのさえままならなくなった。困ったボクは、最後の手段とばかりに医者の門をたたくしかなかった。医者はその患部をペコペコ押しながら、いとも簡単に言った。

「化膿してますネ。切っちまいましょう」

ボクはあわてた。

「あのう・・・明日から中間テストが始まるんですけど」

「そんな事を言ってる場合じゃありません。このまま放っといたら大変なことになりますヨ」

と言う間もなく、ブスリブスリと三ヶ所ほどに麻酔注射を打ち込み、たじろぎ見るボクの視線など全く気にもかけず、ザックリとメスを入れてしまったのだ。案の定だった。麻酔が効いているので痛くはなかったが、医者が両手の親指を当て絞り出すと、血混りの黄色い膿がまるで噴水のように噴き上がった。
膿を絞り出した後は、そのくぼみを念入りに消毒し、黄色い薬品を滲み込ませたガーゼを突っ込み、その上に四角にたたんだガーゼを乗せ、絆創膏で止めて治療は終った。ほんの十分も要しない、あれよあれよという間の出来事だった。帰り際、僕は聞いた。

「明日のテストは受けられるでしょうか」

「ムリでしょう。傷が治るまでは入浴も出来ませんし、しばらくは通院してください」

麻酔の切れたその夜は悶絶した。熱も上って、暗記した英単語も数学の公式も彼方に霧散して、哀れボクは中間テストの全ての日程を欠席せざるを得なかった。泣くに泣けないアクシデントだった。

学校には、こんな場合の救済措置があった。期末テストの七割の点数が恩情的にもらえたことだ。それでも、仮りに全教科満点を取ったとしても、ボクの中間テストの成績は70点である。しかし、過ぎてしまった事は仕方がない。期末も、そして三学期も死にものぐるいで頑張るしかない・・・と肝に銘じた。

だが、予期せぬ幸運が待っていた。この年の「体育」の実技が鉄棒だったことである。中学時代のボクは小柄ながら鉄棒が大得意だった。逆上がりなどは鉄棒の初歩に過ぎず、蹴上がりも、大振り小振りも難なくこなした。そんなボクの、この年の「体育」の点数がどれほどだったかは忘れてしまったが、失点の挽回には大貢献を果たすこととなり、終ってみればわが高校生活、最高の94点をたたき出していた。念のために申し添えるが、全教科の平均点数である。
堂々たる「優等生」と言えるだろう。

高校生活最後の三年生となったボクは、「優等生」へのこだわりを捨てた。

もともと、高校進学さえ無理な貧しい家庭だったので、大学への進学などはハナから予定にはなく、その希望すら持つことはなかった。つまり、僕の取るべき道はただ一つ、いいところへの就職だった。いいところへの就職を勝ち取ることこそが、貧しい家計をやり繰りしながら三年間遊ばせてくれた両親に対して、報いる最大の方法だと心に決めていた。

だからボクは、平常の授業はそれなりにこなしたが、余暇の大半は就職試験用の学習に当てた。「優等生」へのこだわりを捨てたとは、そういうことである。

そんなボクの作戦が功を奏したのか、二学期の半ば頃には早々と就職が決った。県内に支店綱を持つ地方銀行(羽後銀行)だった。銀行といえば、今日でも、どんな地方にあっても就職先としてはNO.1の花形企業だろう。そこに、すんなりと決まったのだから、その歓びは大きく、更に他校の生徒とわたり合って堂々と日頃の「実力」のほどを示し得たわけで、大きな自信につながったことはいうまでもない。

しかし、この就職戦に思わぬ事態が待ち受けていた。日頃成績も良く、行いもいいボクの将来を案じたクラスの担任が、特別の計らいで二行(羽後銀行と秋田銀行)を受験させていたのだ。恩師のこの行為は、明らかにボクに対する恩情であり、平たく言えば「出来のいい、可愛い生徒」に対する「エコ贔屓」と言われても仕方なかったろう。ボクも、そんな恩師の恩情をしっかり胸に秘め、期待に応えようと全力で試験に挑んだ。

ところが、幸か不幸か二行とも受かってしまったのである。秋田銀行は県金庫を扱う県内NO.1の地方銀行である。それに比べ、結果としてボクが入行することになる羽後銀行は、資金量においてその半分にも満たないNO.2の小さな銀行だった。二者択一を迫られたなら、100人中100人がNO.1の方を選ぶだろう。

人の運命とは何と皮肉なものだろう。羽後銀行の就職内定通知を受けてほどなく、ボクにもたらされたのは秋田銀行の第二次試験(面接と身体検査)の通知だった。奮い立ったことは言うまでもない。

秋田銀行の第二次試験の朝は、いつになく身が引き締まった。早起きし、身支度を整え、時間にゆとりを持ちながら自転車をこぎ、最寄の駅へと向かった。受験会場が駅から三つ先の横手市だった。しかし、思わぬ御仁が駅前でボクの到着を待ち構えていた。クラス担任の恩師だった。

「今日の二次試験には行かないで欲しい」

ボクは唖然とした。聞けば、「一人の生徒を恩情的に二俣受験させた件」を、校長に激しく叱責されたと言う。恩師の苦汁に満ちた表情が全てを物語っていた。

しかし、ボクは若かった。恩師の言わんとすることは全てわかったが、それでも最後の抵抗を試みた。

「先生のおっしゃる通りにします。でも、ボクにとっての第二次試験は、自分の実力を試す絶好の機会だと考えます。そのためにも、是非受けさせて下さい。」

そんなやり取りをしている間に列車は滑り込み、虚しい汽笛を残して出発してしまったのである。呆然と見送るしかなかった。

この一件で、若いボクは完全にふてくされてしまった。前年の「エゴネ」の手術で欠席を全儀なくされた以外は一日として休むことのなかったボクだが、さすがにこの時ばかりは心の整理がつかず、一週間登校しなかった。「優等生」の、ささやかな抵抗だった。

ただし、今日ではこの一件に対するわだかまりは一切ない。むしろ、ボクに注いでくれた恩師のご好意には感謝以外の何ものもない。加えて、羽後銀行への就職がなかったならば、その後のボクはなく、ましてやマンガ家・矢口高雄も生れていなかっただろう。

しかし、この一件が若いボクに与えた影響は、計り知れない。他人のせいにする積りは毛頭もないが、少なくともこの一件で「優等生」というタイトルへのモチベーションは完全に失われた・・・と言っていい。その証拠に、二学期、三学期の成績は平凡を極め、ノルマとしての80点台の後半の数学は残したものの、生涯初の「優等生」のタイトルを失っていた。

要するに、「優等生」とは言ってもボクはその程度の人間である。もし、天性の地頭に恵まれていたならば、この程度のアクシデントも容易に乗り越えられただろう。ちょっとでも努力を怠れば、たちまち滑るという程度の人間だということである。

そして、そんな自分の高校生活を振り返るとき、悔いがなかったと言いたいところだが、それではウソになるだろう。「優等生」という語感は実にいいし、それなりにその後の人生にもたらした自信は少なくはない。しかし、最後に「優等生」には「優等生」の悩みがあったことだけは申し上げておこう。たまたま「優等生」にまつり上げられたばかりに、そのタイトルを守ろうと、人知れず悩んだ幼い心の痛みは、「優等生」でなかった人には理解しにくいことだろう。

「優等生」というレッテルがなかったら、ここまで自己を厳しく律する必要もなかっただろうと思う場面も少なくなかった。若いのだから、もっと無邪気にハメを外したり、失敗してもいいはずなのに、「優等生」という名目の前に妙に臆病になり、おびえた日々が今日でも夢に現れ、寝汗をかいていることがしばしばである。

もしかしたら、ボクのアダルトチルドレン現象は、この辺に起固しているのかも知れない。

そうは思いたくないのだが・・・。
「陽水命」  更新日時:07/11/10
7月29日(日)、NHKホールであこがれの「井上陽水コンサート」を観た。

ところで、この日のボクは大変だった。7月29日といえば参議院選挙の日で、既報通り安倍政権が大惨敗を喫した日だったが、実はその前夜ボクは長野県の千曲川にいた。ボクの主宰する釣り大会「三平クラブ」(鮎釣りクラブ)の釣交会を明日に控え、この夜は「前夜祭」だった。

「三平クラブ」は千曲川が発祥の地である。しかし、事情があってここ十年ほど釣交会の開催がなかった。つまり、久々のホームグランドでの開催ということで、ボクも古参会員も懐かしさに胸を震わせて「前夜祭」に臨んだのである。

それにしても、最近のボクの物忘れはひどい。釣交会の当日が「陽水」のコンサートだということをすっかり忘れていた。大変だったというのはそういうことである。結局、大汗をかきながら、会員にはひたすらお詫びするしかなかった。つまり、29日の釣交会には、早朝の開会式にのみ出席させていただき、正午頃までに帰京するというあわただしいさで、コンサートにはどうにか間に合った。

自分の主宰する釣りクラブの大会よりも、「陽水」のコンサートを優先させてしまうほど「陽水命」のボクなのである。

「陽水」を初めて聴いたのは、昭和四十九年に発売された二枚目のアルバム「ライブ・もどり道」だった「釣りキチ三平」で言えば第四章「三日月湖の野鯉」を描いていた頃で、その頃採用した福岡出身のアシスタントN君が「もどり道」を購入したことがきっかけだった。N君いとっては、陽水は同郷出身だから応援しよう・・・というのが購入の動機だったらしいが、一度聴いただけでまずその美声に魅了された。

「陽水」」が決定的にボクの身体に入り込んだのは、そのなかの一曲「神無月に囲まれて」で、今日でも忘れることが出来ない。

その頃ボクは「三平」と同時に「おらが村」(漫画アクション・双葉社)を連載していた。が、そのドラマ展開に大きな迷いを感じていた。迷いは、一つの恋の物語りの行方だった。主人公政信と、隣村の律子との恋物語りの決着だった。政信は、もうすぐ三十路に手が届こうとする独身の男性であり、家業を継ぐことを宿命づけられた農家の長男だった。一方、その恋人律子は、もちろん政信とは相思相愛の仲だが、結婚には大きな障害があった。
律子も農家の長女に加えて、養子を迎えなければならない一人娘だったからだ。

自分で創って置きながら、こんな恋の行方に悩むなんて、何と因果な仕事だろう。
「駆け落ち」というドラマ展開も、何度も考えた。しかし、ボクにはそれが出来なかった。おそらく、東北の農家出身のボクには身に浸みついた「百姓」としての道義があったのだろう。二人の恋の成就もさることながら、それを取り巻く周囲にも気遣い悩むボクだった。

結局、ボクが選択したのは「別離」だった。木枯らしが吹きすさぶ晩秋、実らぬ恋に終止符を打つかのように政信は、一人寂しく出稼ぎへと旅立つ。「陽水」が、ボクの身体の中に確固として入って来たのは、その別離のシーンだった。

   風がさわぐ  今や冬隣り
   逃げるように  渡り鳥が行く
   列について行けないものに
   また来る春が
   あるかどうかは  誰も知らない
   ただひたすらの  風まかせ

「神無月にかこまれて」の、この一節を、ボクは大胆にその別離のシーンに引用した。我ながらの出来栄えだった。悩みは、爽快に消えた。九州の炭鉱町出身の「陽水」感性が、東北の農村「おらが村」にこんなにフィットするとは、ボク自身にも大きな驚きだった。初めて「陽水」のコンサートを拝聴したのは「ライオンとペリカン」をリリースした1983年で、新宿の厚生年金会館でのことだった。「陽水」は、この頃既に10枚のアルバムをリリースしていたことを考えると、遅きに失した感がある。もちろん、当時のボクの仕事の多忙さもあったが、ボク自身のなかに「コンサートを聴きに行く」という要領を心得ていなかったことに原因があった。

一般に、ニューアルバムが発売されると、それに伴なって新曲披露を兼ねたコンサートが行われるのが音楽業界の通例である。各セクションのアーティストを集めてバンドを編成し、練習に練習を重ねて一枚のアルバムのレコーディングするわけだから、その成果を利用してコンサートを行えば、二重の収入が得られることは言うまでもない。人気マンガの連載作品を、単行本として再販するのと良く似ている。・・・・が、そんな音楽業界の事情など全く知らなかった。

とにかく、そんなわけで初めて「陽水」のコンサートを拝聴したのだが、興奮の極致だった。発売された10枚のアルバムは、繰り返し繰り返し聴いていたので、前奏が始まるとたちまち曲名がわかり、暗闇で素早くメモするほどに「陽水中毒」になっていた。なかでも、このコンサートで大感激だったのは、オープニング曲が弾き語りで「神無月にかこまれて」だったことだ。そして、レコードで聴く「陽水」よりも、ナマの声が若干野太く感じられたことだった。

以来、ボクは完全に「陽水」の虜となった。コンサートの日程は全て念入にチェックし、例えば横浜で二夜、東京で二夜のコンサートがあれば、同一ツアーでも四夜全てに足を運んだ。つまり、完全なる「追っ駆け」に変身していた。

あるツアーで、NHKホールで二夜連続というコンサートがあった。もちろん、二夜とも早々とチケットを入手したことは言うまでもないが、何とも具合の悪いことにその頃ひどい腰痛に悩まされていてトイレに立つのもままならなかった。しかし、そんなことでくじけるボクではなかった。NHKホールにデンワを入れ、車椅子を準備してもらい、それ専用の入り口から堂々と会場に案内してもらった。しかし、そんな体調のボクが、フィナーレの「夢の中へ」の前奏が流れると、いつの間にか大勢のファンと共に敢然と立ち上がり、拳を振り上げノリまくっていたのだ。

さて、7/29(日)のNHKホールでのコンサートである。それにしても、時の流れは早いもので、「陽水」も来年は「還暦」を迎えるという。昨夏も、昭和女子大人見記念講堂でのコンサートを拝聴した。が、正直申し上げて、さすがの「陽水」も寄る年波は隠せなかった。あの甘く澄んだ高音も、特有のファラセットにも往年のノビがなくなったことは「陽水」自身が一番自覚していることだろう。

それが、この度のコンサートでは、見事に精彩を取り戻していた。衰えをカバーするアレンジも効いて、むしろ若い頃のそれとは一味も二味も違うパワーに満ち溢れていた。五十九歳の「陽水」の年齢を、改めて見直すコンサートだった。

更に、このコンサートで特筆すべきは、「陽水」にしびれて三十四年のボクに、思いもよらないサプライズがあったことだ。最近知り合った音楽業界にくわしい友人が、わざわざボクのために、バックステージ(楽屋」での「陽水」との対面を演出してくれたのだ。感謝、感激の一瞬だった。白い歯をほころばせながら近づいて来た「陽水」と、ガッチリ握手したことは言うまでもない。
もちろん「陽水」は、友人の紹介でボクが何者であるかは承知していた。
だから、多くを語ることはなかったが、万感の思いを込めてボクが発した言葉は、たった一言

「永いこと、あなたの追っ駆けをやらせていただいてます。」

と、「陽水」はすっかり恐縮の体で言った。

「めっそうもない・・・・・・」
記憶の穴/NO,7 「恩師たち」  更新日時:2007/11/20
記憶の穴を埋めようとペンを採った作業も、次第にそのネタが尽きて来たようだ。そこで、当時の「恩師」たちの思い出をたどれば、若干なりとも脈絡がついてくるかも知れない。そう考えて、ひとつそれに挑戦してみる。

◎ 入学したてのボクらの担任になったのが滑川道夫先生だった。180センチはあろう長身で、スリムな体形で、常に黒かグレーのソフト帽とトレンチコートを愛用していたので、「ハンフリー・ボガード」のようなダンディな美男子だった。・・・が、仇名は「逆フラスコ」だった。黒いソフトを脱いだその下が、まだ三十歳を過ぎるぐらいの若さながら、見事な「ザビエル禿」。その頭の形がまるでフラスコを逆さにした形そっくりだったことが仇名の由来だった。冶金工学を取得した先生で、ボクらには物理を教えてくれた。・・・が、とにかくそのダンディなスタイルと、都会的な身のこなしが優雅で、ボクは大好きだった。しかし、ボクらが卒業してほどなく病で夭折した。・・・・合掌。

◎ 「エンタマ」の愛称で親しまれたのは「漢文」の遠藤玉吉先生。教頭先生だったがなかなかユーモアもあり、人気は中ぐらい。特筆すべき思い出はないが、強いて挙げれば試験のヤマが懸け易すかった。生徒の誘導尋問によく引っ掛った。

◎ 「ガンジー」の異名をとったのは柿崎春吉先生だ。色黒の痩身で、彫りの深い顔立ちはまさにインドのガンジーそのものだった。もう定年に近い年令だったが、いつの頃からか体制(校長や教頭職)をはずれ、もっぱら体制側を批判する立場を貫いていたので、反抗心の旺盛な生徒の間では大人気のおじいちゃん先生だった。担当教科は「人文地理」と「世界史」だったが、ある学期に教科書はもちろんどんな参考資料を持ち込んでもいい、というテストを行った。その問題を見て驚いた。テスト用紙にたったの一行「ヘレニズム文化について知れるだけ記せ」だった。もちろん、ボクは汗だくになりながら、持ち込んだ資料を駆使して取り組んだのだが、答案用紙を書きながらフと思った。こんな問題を出して、それを採点出来る先生の実力は空恐ろしいと。思わず尊敬してしまった。

◎ 児玉和子先生は大学を出て間もない「国語乙(古文)」の先生で、清少納言の「枕草子」や、紫式部の「源氏物語」等々を習った。しかし、色気のつき始めた男子生徒の間では、その顔立ちとスタイル、教壇での柔らかい物腰から圧倒的な人気を得ていた。ただ、晩生のボクにはついぞそのヘンのところがあまり理解出来ず、今更ながら残念に思っている。

◎ 「エンコウ」の愛称で親しまれた遠藤功先生は「書道」の先生だった。
しかし、その実力は完全なるプロ級で、書道ではメシが食えないから高校教師をしているというほどの実力者だった。わが校には美術クラブがなかったので、仕方なくボクは「書道クラブ」に入ったと、以前のコラムに記した。つまり、ボクは授業でもそうだが、「書道クラブ」を通して「エンコウ」先生には
ずいぶんお世話になったし、多くのことを学ばせていただいた。銀行に就職が決ったとき、自ら進んでボクの身元保証人になってくれたのも「エンコウ」先生だった。まさに恩人である。

◎ 二年から三年にかけて担任となった塩田孝三郎先生は、今日も健在であり、同窓会があれば必ず出席してくれる。良きアニキ分であり人情味豊かな親分肌の先生である。そうそう、ボクの就職をめぐって、銀行二行に二俣受験をさせてくれた恩師とは、この御仁である。

◎ 「逆三角」のニックネームで親しまれた小西功烈先生は「解析」の名先生だった。頭のてっぺんが真っ平らな逆三角形の顔立ちからその名がついたわけだが、理路整然たる教え振りには、クラスの誰もが一目置いた。運動会で転倒したはずみに、左手が破傷風菌に犯された。以来左手の発達が阻害され、極端に短く、いつもポケットにしのばせていたが、それが先生の芯の強さの象徴となって、授業に対する信頼感はNO,1に高かった。

◎ 一年生の途中に、又井美恵子先生という若い「英語」の教師が赴任して来た。「英語」教育のレベルアップを図ろうとする校長先生が懇願して連れて来た先生だったと聞いたが、案の定だった。映画監督の黒澤明とは近い姻戚関係に当るとも聞いたが、とにかくそのレベルは高く、とてもわが校に諾として定着する先生ではない・・・というのがボクの第一印象だった。特に美人というほどではなかったが、不思議な魅力があり生徒には人気があった。かく言うボクも、その不思議な魅力に引かれて、何度も下宿にお邪魔したものだ。なかでも、ボクが第二席となった「校内弁論大会」の論旨と、発表時のボクのアクションや度胸の良さを大変高く評価され、「全県英語弁論大会」に出場してみては・・・と誘われた。もちろん、ボクの弁論を英文に翻訳するのは彼女だったが、ボクには荷が重過ぎて断らざるを得なかった。返す返すも残念に思う。初対面の第一印象で、わが校には諾として定着する先生ではないことを直感した・・・と前述つしたが、その直感はピタリと当っていた。それでも四年間いたらしいが、わが校を退いた後はアメリカやドイツの大学に留学し、帰郷後は秋田経済法科大学教授、同学務部長を歴伝して、現在は悠々自適の日々を送っている。
NHK「新日本紀行ふたたび」に出演  更新日時:2007/12/08
12月1日~4日の日程で、北海道の釧路湿原を巡って来た。
NHKの「新日本紀行ふたたび」というテレビ番組のロケのためである。

ボクが初めてテレビ出演をしたのは昭和50年(1975年)6月のことで、NHKの「スタジオ102」という朝の情報番組だった。この年ボクは「マタギ」で第5回日本漫画家協会賞(グランプリ)を受賞したことでテレビ出演となったのだが、初めてのスタジオでの生放送ということもあって、勝手がわからず、しどろもどろのひとときだった。ホームビデオが高嶺の花だった時代なので、わが家にはそんな装置もなく、だから自分がどんな具合に映っていたのか、現在では確かめる術はない。ただ、ボクが画面に登場するや6歳の娘が、思わず「パパがテレビに呑み込まれているゥ!!」と奇声を発したという。

NHKの老舗番組「新日本紀行」への出演依頼があったのは、その2年後の昭和52年(1977年)だった。当時ボクは「釣りキチ三平」も連載4年目に突入し、第9章「イトウの原野」を執筆していた。出演依頼はその連載が目にとまって、作者であるボクに白羽の矢が立ったのだろう。NHK北見支局が製作する「幻の巨大魚イトウを追って」というタイトルで、イトウを追い求める釣り人兼リポーター役として、釧路湿原から根釧原野一帯を釣りの旅をして欲しいというものだった。

それにしても当時は眠る時間もないほど多忙な時代だった。だから、「イトウの原野」も、連載に備えてわずか2日間の取材という離れ技的スタートだったので、描きながら取材不足を痛感していた。そこに、降ってわいた様なイトウへの再挑戦の依頼である。取材不足を補う絶好のチャンスではないか。

結果、一も二もなく応諸した。しかし、連載を休むことなど出来る相談でもなく、ない時間をやり繰りしての出演だった。幸いなことに、放映された番組は思いもかけない高視聴率を得ることになり、4回もリピートされる結果となった。

 

この度の「新日本紀行ふたたび」は、そんな高視聴率も後押ししたのだろう。つまり、あれから30年振りに再び釧路湿原を尋ねるというもので、30年を経た今日の湿原の変化と、それを取り巻く人々の暮らしをリポートしようというものだった。

 

12月の釧路湿原は、積雪こそなかったが、朝は連日マイナス10度という極寒だった。そんな冷気の腹這う釧路川をカヌーで下る・・・という場面もあったが、どの様な変化があったかは、まずは番組をご覧いただきたい。



ひとつだけ明かしておこう。確実に変化しているのは、ボクの顔である。30年前のVTRに登場するボクは、当時37歳を数えていたが、水もしたたる紅顔の美青年だった。

NHK「新日本紀行ふたたび」
放映日2008年1月2日 朝7時20分より~
「ねらい」  更新日時:2007/12/13
今年八月に発刊した「平成版/釣りキチ三平VOL.6」=「御座の石」のあとがきに、ボクはそれを描くに至った経緯をかなりの長文で綴っている。そこに記された「人との出会い」は、たしかに描くに至った経緯には間違いないが、描くに至った動機となれば、実は別のところにある。

例えば一本の作品を描いたとしよう。当然その作品を描こうとした「ねらい」はある。しかし、それは作品を読めばわかることで、作者がいちいち言うべきことではない。言葉を換えて言えば、、読んでわからないようであれば、その「ねらい」が作品に表現されていないと言うことになり、これは作品としては実にまずいと言わざるを得ない。このコラムでは特例として、その言うべきではない「ねらい」を明かすことにする。

「御座の石」のドラマのなかで化石の発掘作業が開始されるシーンがある。その発掘作業を取材に来たリポーターのおネエちゃんのコメントに注目していただきたい。

「それにしてもこの頃悲しいニュースが後を絶ちません。イジメなどが原因とみられる少年少女のいたましい自殺のニュースです。ところが今日は、そんなくらい話題を吹き飛ばすかのようなニュースをお届けします」

ボクが、この「御座の石」を描こうと思い立った「ねらい」はこれだったのだ。自然のたくましい営みに触れ、太古に思いをはせる様な体験をしたならば、人と人との確執や、イジメなんて、考えるほど大きな問題ではなくなるはずだ。・・・と言いたかったのである。

そんなボクの「ねらい」が通じたのだろうか。つい先日(2007年12月4日付)の「東京新聞」朝刊の「発言」という小さなコラム欄に次のような投書が発表された。ご一読願いたい。

「小さな美から生きる勇気が」
自営業  酒田弘徳  44(静岡県沼津市)

私は幼い頃からいじめられっ子。私を助けてくれた先生や同級生も少なからずいました。ところが、その声を聞くことができませんでした。感謝すべき方々が周囲にいたにも関わらず、それに全く気付かず、頭の中は「死」のことでいっぱいになり、腕を包丁で切ったことがあります。その時、壁に張ってあった漫画「釣りキチ三平」のポスターが目に留まったのです。美しい自然の中で、のびのびと釣りをしている少年・三平君に「死ぬな」と言われている気がして、すぐに救急車を呼び、一命を取り留めました。

いじめに遭っている皆さん。天気がいつもよいとは限らないでしょう。でも、緑があり、小動物がけなげに生きている。小さな美を見つけてください。道ばたにごみが落ちていたら拾う勇気を出してください。人間の成長はたわやかなものです。死んで埋葬されるより、惨めでも生きている方が素晴らしい。